たくさんのものをなくして、ひとつ手に入れた。






頭部強打による、記憶の喪失。
そのショックに酔って、口が利けなくなった。

長々と話をしていたけれど、自分が理解できたのはそれくらいで、
名前が飛び交ってはいたがどれが自分の物なのか分からないのだから、それはまるで呪文のようで、眠気が襲ってくるのはしょうがないことだ。
くああ、と欠伸をした。
医者と、黒尽くめの服を着たオールバックの男はまだ話している。
話している黒服の隣には、アイマスクをつけて寝ている少年と、火をつけていない煙草を銜えている男がいる。

「なぁ、高杉。本当に覚えてないのか?」
「………?」

静まり返った部屋に、タカスギという単語が自分の名前らしいとようやく気付く。
自分を指差し首を傾げて確認を取れば、紙をオールバックにした男は顔を曇らせる。
医者はカルテに視線を落としている。どこかから溜め息の音が聞こえたが、誰が漏らしたのかは分からなかった。

「こりゃあ、本当に覚えてねェみてェだな」
「………」
「高杉晋助。それがあなたの名前ですよ」

タカスギシンスケ。
真っ白な頭の中にポツリと一滴の墨が落ちたようだ。
それを周りを染めることはなく、ただ点を作り居心地の悪さを残しただけだったが。
名前を口に出してみようと口を動かしてみるが、声にはならず息が漏れ出ただけだった。

「数日様子を見てみますが、記憶をなくしたというならなくす前に関係のあった所を巡るのがいいんですが…」

医者はそこで黙るとオールバックの男を窺い見た。
男の明るかった顔が暗く沈んでいる。何か問題があるのだろうか?
誰もが口を噤み部屋には気まずい沈黙が漂った。

自分は、ここにいてはいけない存在だ。

唐突に、直感ではあったがそう思った。自分は勘の鋭い方だったのだろうか、何故か確証が持てた。
本当に彼らが以前自分と面識があったのかも疑わしい。
本当は、違うのではないか。何か、別の理由があるのではないか。自分には言えないような理由が。
自らに問いかけてももちろん答えなど出る筈もなく、唇を噛み締めた。

真っ白な布団。真っ白な包帯。真っ白な部屋。
まるで自分のようだ。何もなく、何も生み出さない色。
布団を力の限りに握り締めると、ガタッと椅子の揺れる音がした。

「俺が預かる」

視線を布団から上へ移すと、今まで仏頂面でパイプ椅子に座っていた男が立ち上がっていた。

「でも、トシ」
「近藤さん、土方さんの好きにやらせりゃいいんじゃないですかィ。俺ァ、知りやせんけど」
「………そうか、分かった」

男が一瞬安堵したような表情を見せたのが気になったが、すぐに消えてしまい夢だったのかと目を瞬かせた。
てっきりどこかのセンターに入れられると思っていたからその申し出は以外だった。
会話には参加せず、ここに来たのも嫌々連れてこられたようで、自分を好ましく思っていないのは明白だったのに。

「土方十四郎」

少し低めの、透き通った芯のある声が響いた。
耳に届く声が気持ちよくて、言葉の意味を読み取るのも忘れてしまった。
温かく、包み込むような、夕暮れの太陽のような声。……夕暮れ?

「俺の名前だ」

告げられた言葉に頭に浮かんだ疑問符を打ち消す。答えなんて出ないのに、性懲りもなく疑問を作るな。
ヒジカタトウシロウ。
繰り返してみれば、自分の名前を聞いた時と同じだった。
ああ、まただ。何も掴み取れずに滑り落ちていく。
怪訝な顔をしていたのを見ていたはずなのに、土方は気にも留めずに踵を返した。

「あっ、ちょっと待てよトシ!じゃ、俺達もそろそろ行くな。帰っぞ、総悟」
「へい」

ようやく外したアイマスクの下からは、美し過ぎる青色の瞳が覗いた。
清く、強く、憎悪が混じった、ガラスのような瞳。
睨みつけられているわけでもないのに射抜かれるようで、慌てて視線を逸らすと、
男はかったりィなァ、と首に手を当てながらのらりくらりと歩き出した。

「置いて行きますゼィ、近藤さん」
「ちょっ、お前らはどうしてそう身勝手なのかな!あ、じゃな、高杉」

大きな背中があわただしく去っていき、医者も一礼して部屋を出て行った。
部屋の大きさは一人では持て余してしまうほどで、急に怖くなった。
自分はタカスギシンスケという名前しか知らない。どこで生まれ、どんな生き方をし、どうしてこんなことになったのか分からない。
布団から両手を離し目の前に掲げた。

自分は、誰だ?

不意に寒気を感じて体を抱き締めた。この手に掴んでいるものなんて一つもない。
自分が自分であることも、生きて来た証拠も全て。
古江がおさまらない体を無理に抑えるために腕の力をきつくすると、突如電子音が鳴り響いた。
辺りを見渡しているとパイプ椅子の上で唸っている携帯が見つかった。
忘れていったのか?
手に取ると振動は止まり、ディスプレイに文字が表示された。

『メール1件受信』

どうすべきか一瞬悩んだが、携帯を開き丸ボタンを押していく。
疑問を持ちながら、メールアドレスが表示されているメールを開くとぶっきらぼうな文が現れた。

『明日も行く』

たった五文字で誰から来たのか分かる。自分が知っているのは四人しかいないのだから当然とは言えば当然なのだが。
彼以外にはいない。何故だか自分の面倒を見ることになったあの男以外には。
迷惑を掛けてしまったと思ったし、これからもたくさんかけるのだろう。
周りの反応からして彼がしたあの行動は決してプラスに働くことではないのだろうし。
本当なら無理でも断ればよかった。けれど。

「……ッ…」

今はただ、この優しさに喜んでもいいか。
自分の存在を認めてくれる人がいる。それが酷く嬉しくて。
液晶に水が落ち、文字を歪ませ、鈍い光を放った。