硝煙と血とアルコール。
そんなもので形成された非日常が日常になって、遠い終わりが少しずつ、けれど実体を持って近付いてくるのを、口にはしないがみな感じとっていた時に、それは起きた。
悲劇と言うほど自分は哀れみを持たなかったし、滴り落ちる血なんてとうに見慣れていて、二度と着れない服の方が気にかかった。

薄情?そうかもしれない。だが、本人も同情なんてものは望んでいなかった。
彼は集まった視線を退屈そうに見やって、一つの目玉でどこか彼方を見つめて、口を動かした。聞きとることは出来なかった。
伝えるために呟かれたわけではないことが分かっていたから聞こうとも思わなかったのかもしれない。

すべてが曖昧であやふやで鮮明な映像を求めれば求めるほど霧に紛れて消えてしまう。
世間と切り離された異常な世界で、日付も時間も意味をなさなかったあの日々を逐一思い出すなんて不可能だ。
記憶は時間が経てば美化され、あの頃はよかったとなるのだから。


今改めて考えてみれば、彼が片目を失ったのが終戦が近い頃だったのや、虚ろな目で戻って来たのも本当のことか分からない。
若かった自分は夢をよく見たし、戦場を抜けた後も繰り返し夢を見た。
事実か妄想か、誰にも分からない。

あの時あそこにいたのはみな目撃者で証言者で人間だった。

嫌な記憶は消し去るかおぞましさを増したかで、実際の事実を覚えている者なんていないだろう。
覚えていたって食い違う。どこかしら都合のいいように捏造されている。
だからかつての仲間と話すことはしない。自分の記憶も改ざんが繰り返されて聞けたもんじゃないだろうし、話したところで何が得られるのだろう。

損得を考えるのが癖になった。商売人の性だが悪くない。決める時に迷わないのは非常に楽だ。
迷っていたら欲しいものは手に入らない。手にしていたいものはなくす。いいことなんて一つもない。得以外いらない。
取引先の顔と名前を覚えるたびに記憶が薄まっていく。仕事人間になった自分に安心感を覚えている自分が浅ましい。
忘れたがっている、消えていった光を。


日々欠けていく記憶の中で、一つだけ永劫忘れないだろうことがある。
片目を失った彼に対して、酷く強い憎しみを抱いたことだ。殺したいほどの。
あれほど強い憎悪は初めてで、平和となった今に抱くことはないだろう。
しかし、なぜそんなに彼を憎んでいたのか思い出せない。仲間であり友であった彼をなぜ。
思い出せないのか思い出したくないのか。考え過ぎて頭が痛い。自分はあっけらかんとしたまま生きていくのが合っている。

自分は心配しているのだろうか?図太いやつだから野垂れ死ぬことなんてないはずだ。道端で死んでいるなんて有り得ない。
万一そうなっても地球に来る機会の少ない自分が彼の姿を見れるのは断頭台の上で晒し者にされているところだろう。
線香の臭いもせず、血の臭いに包まれて、彼はいるのだろう。

こんな考えをする自分はなんて最低な人間だ。正義ぶった言葉があまりに薄っぺらくて笑いが込み上げた。
最低?上等。最低限の大事なものを守れれば、それでいい。


苛立ちが混ざった自分を呼ぶ声が聞こえる。商談がもうすぐ始まる。愛しくもなんともなかった日々に別れを告げる。
過去に浸る気も時間もない。楽しくもなんともないことに時間を裂くなんて馬鹿げてる。
ゼロが連なる紙切れをあっちにやったりこっちにやったりしている方がまだいい。
一種のゲームと思えば案外楽しいものだ。ゲームは真剣になるほど楽しい。
昔を振り返るなんて非生産的なことより幾分いいことか。

部下に返事をして舶来物を手に取る。
室内で掛けても視界が悪くなるだけだが、相手を丸め込む技術が必要とされる場で動揺や怒りが相手に伝わらないのは重宝する。
明るい世界で暗い視界。暗い世界で明るい視界。
どちらがいいなんてない。自分はたまたま前者を選んだだけだ。

部屋から出れば不機嫌な部下に睨まれ苦笑を返す。
人工的な白が塗りたくられた床。下駄の音が響く。さぁ行こう。





さよならロマンチスト、こんにちはエゴイスト