前へ駆けろ。
一歩でも多く。
がむしゃらに。
振り返らず。
止めるものは蹴飛ばし。
決して止まらず走って行け。

戻る道など、もう、ないのだから。






「あっちに行ったぞォォ!!」

叫び声が上がる。瞬間、身体を硬直させ耳を澄ませる。結構近い所にいるようだ。
チッと舌打ちをして、碧眼の男は身を屈めた。
左目を包帯で隠し、女物の派手な着物を纏った出で立ちは人々の目を引く。
ただでさえ、彼は『指名手配犯』だというのに。
同じように幕府から追われる桂からすれば、ありえない格好、なのだが、ポリシーなのか変えることはしないらしい。
幕府――真選組への挑発をも担っているからなのかもしれない。
事実、名前は広く知られていても、姿を実際に見た者はほとんどいない。

「こっちだ!!」

ハッと後ろを見やれば、黒尽くめの男が真横を向いて手を振っていた。
仲間を呼んでいる。倒す事も可能だが、逃げる方が先決だと判断し、編み笠を深く被り直し、走り出した。

「高杉!!」
「神妙にお縄にかかれッ!」
「ひっとらえろォ!!」

「冗談じゃねェ」

吐き捨てると、追って来る足音から一定の距離を置きながら、時折後ろを振り返る。
いた。
ニヤリと口元を歪め、高杉は嬉しそうにククッと笑った。

「早く追いつけ」

右に左に走り、スピードの緩急をつけたり、やり過ごして倒したりしているうちに、犬は随分と消えたようだ。
見失ったらしく、遠くで吠えている声が聞こえる。
結局、見失った地点を中心に大きな円を描き、狭めていくことになったらしい。
悪くはねェが、んな大声で作戦練ってたら意味ねェだろ。

たた、たたたっ、と軽快に地面を蹴っていく。
走り回っているうちに町中から端に来たらしい。人気が少なくなり、シンとしている。
道にはごみが置かれたまま異臭を放っており、眠っているのか、死んでいるのか、
ボロ布に身を包んだ人が壁に持たれ掛かっていた。
足音も、遠吠えも聞こえなくなった。

高杉は歩みを歩みを遅め、廃墟となったビルのドアを押した。
ギ、ギギと抵抗の声を上げながら、錆び付いたドアはゆっくりと開いていく。
編み笠を投げ捨て、わざと開けたままにしておく。

「早く来いよ」

パタ、パタと一段ずつ階段を上っていく。
あの優秀な黒犬は鼻が大層利くから、すぐにここまで来るだろう。それが楽しみでしょうがない。
度々、江戸で姿を現すのはあの犬に会うためともいえる。
きつく鋭い瞳は瞳孔が開き、艶やかな黒色の毛並みは上質で、会えば牙をむき出しにする犬。

今回はどうやって逃げてやろうか。
また負け台詞を吐いて、忌々しげに舌打ちをするのだろうか。
思い浮かべて笑うと、階段を上り終わった。
コンクリートは今にも崩れそうで、床には割られたガラス、埃が積もっている。

風がさぁっと通った。

埃が舞い上がり、光を浴びてきらきらと輝いている。
この場に似つかわしくない爽快な風だ。
キセルを手で持ち、目を閉じる。髪をなびかせ、頬を撫でていく風が心地いい。
口を薄く開き、煙を吐き出す。

一息吐いた時、びゅう、と突風が吹いた。
いや、違ェ。風が吹いたんじゃねェ、風が作られたんだ。
キセルを吸い、吐きながら目を開けた。

「よぉ、土方」

刀を構える凛とした姿、獣の様に瞳孔が開いた瞳、荒く散髪された黒髪。
やっぱり、この黒犬は上等だなァ。

「高杉、今日こそお前を捕まえる」
「確か、前もんなこと言ってたなァ」

ニヤニヤと笑ってやると、土方は苦虫を潰したような顔をした。
今日こそ捕まえるなんて聞き飽きた。
それに、俺は捕まるよりも相手を捕まえる方が性に合っている。

「うるせェ!お前は黙ってろ!!」
「はいはい、副長サン」

役職名で呼べば、眉間に皺を寄せる。
お前は感情が顔に出過ぎだ。賢く生きる術を得ろよ。
刀を高杉に向けたまま、土方は少しずつ近付いていく。
キセルを再び吸った。

あと一回くらい吸えるか?
殺気だった土方を前にしながら、高杉はそんなことを考えていた。
もちろん量ではなく間合いのことなのだが。
すう、と身体に獣を染み込ませ、高杉はキセルを床に投げ付けた。

キィィィン。
刀と刀が擦れ合い、甲高い悲鳴を上げる。
この黒犬が最も好む、命のやり取りだ。
緊迫していても瞳孔は開き、口元は笑っている。興奮が身体から溢れ出ている。
俺も好きだゼ、命のやり取りは。弾き返し構え直す。

両者とも命を賭けたゲームを心から楽しんで、二人とも笑っている。
こんな奴が部下に欲しい。幕府じゃなくて俺の物になればいいのに。
自らの物にしたらと考え、身体がゾクゾクと震えるのが分かった。

「土方ァ、欲しい物を手に入れるのに手っ取り早いのは何だ」
「…奪い取るのが一番早ェよ」
「そうか。……じゃあ、そうさせて貰うゼ」

土方に向かって刀を振り下ろそうとした刹那、閃光が走った。
爆音と共に辺りに漂う白い煙の中から、暢気な声が現れる。
茶髪に整った顔、小柄な身体には似合わないミサイルを持った少年が現れる。

「あーりゃりゃ、外れちまいやしたねィ」
「おまっ、俺を殺す気か!?」
「そうに決まってんでしょう」
「てめェ、コノヤロー!!」

ダン、と土方が勢いよく右足を付けた時、ミシ、と小さな音がした。
本当に極小さな音で、誰も気付いてはいなかった。

「お前はいつもいつもだなぁ。俺に恨みでもあんのか!?」
「おやおや、この人ったら気付いてませんよ、奥様」
「馬鹿にすんな!!」

二度三度踏み鳴らすうちに床にあった皹が少しずつ長く、大きくなっていく。
イライラが最高潮に達した土方が沖田に斬りかかろうと足を踏み出した時、嫌な音が三人の耳に届いた。

メキッ。

「え?」

驚いて足元を見た土方は、床から床が見えたことにまたもや驚いた。
沖田の放ったミサイルのせいで入った皹が大きくなり、床が耐えられなくなり崩壊した、という
とても分かりやすい状況だったのだが、パニックに陥っていて理解することが出来なかったのだろう、
土方は目を見開いたまま崩れ落ちる床に乗っていた。
すべてがスローモーションで、無意識に走り出していた。

手を伸ばして名前を呼んだ。
掴んだ手に口の端を上げた。
力一杯手を引くと、身体が前のめりになった。

落ちたら無事ですまないと分かっていながら、それでもいいと思った。
自分はもしかしたら、この犬に恋焦がれていたのかもしれない。
気付くのは遅過ぎ、気付いても実ることのない思いだが。

眼球が飛び出すほど大きく目を開いた土方の姿が見えた。


それが、サイゴ。










続かない。
続いたらしい。