「江戸か。やってきたのは何年振りか」

大きな編み笠が小さな頭をすっぽりと覆っている。
着物は若葉のような黄緑色、中には黒色タートルネックを着込んでいる。
五月の爽やかな風が吹き、男は編み笠を上げ、風を身体で感じた。

真っ白な髪をさわさわと風が潜り抜けていく。
弱く。優しく。滑る。撫でる。時に強く。
絡まることもせず、風は誘うように男に柔らかく息を掛ける。
両目には包帯が巻かれているが、もう慣れているのか、男は特に気にする様子もない。

「初夏の薫りだ」

頬を緩ませ、男は再び編み笠に顔を隠した。
かたん、かたん、と下駄が橋を叩く音が反響する。
懐かしくなってしまったその音を聞きながら、男は再度微笑んだ。


時代は幕末、場所は江戸。
天人が我が物顔で歩くこの町に。
気高き侍降り立ちて。
止まった時が、刻まれ始める。


「楽しいことになりそうだ」


はてさて、どうなることやら。







うららかな日だ。
柔らかな日差しが差し込む昼時。睡魔が襲い瞼が重くなる。
少年は店番らしいが客は早々来る物ではなく、意識はぼんやりと霞んできた。

五月晴れ。そんな言葉が似合う日だと思う。
元の意味は梅雨の間の束の間の青空だが、今日みたいな真っ青な空の時に使った方がしっくり来ると思う。

ぼんやりと考えながら、はーるのうらぁらぁのー、と歌ってみたが、頭はすっきりしなかった。
大声で歌っても音痴だと文句を付ける人達はいないが、選曲を間違えたらしく、少年は机にぺたりと頬をつけた。

「眠い。寝ていいかな、いいよね。それに僕ばっかり店番してるし」

店には新八一人しかいなかった。
普段三人+一匹がいる為に気付かなかったが、中は意外と広い。
一人でいると結構寂しい物がある。

「いやいや、こんな平穏な時間、何週間振りだと思ってんの」

外を歩けば事件に巻き込まれ、依頼を受けたら受けたで事件に巻き込まれ。
何もしなくとも事件に巻き込まれる性質なのだろうか。
原因は銀さんに間違いないだろうけど。

お節介で自分のこと省みないで他人を助けてしまう性分で、自分の武士道を貫く人。
それが自分の憧れで、だからこそ、バイトまでしてるのに。

「絶対間違えたよな…」

はーあ、と溜め息を吐いて、眼鏡を掛けたまま目を閉じた。
ぽかぽかしてて気持ちいいなあ。
僕は今、安楽の地へと旅立ちます……。


ド――ンガッシャァァン


すごく分かりやすいけたたましい音を立てて、何かが割れる音がした。
人の安眠を妨害するな!安楽の地じゃなくて天国行きそうだったし!
ん?安楽の地=天国じゃないか。駄目じゃん、僕!!

それにしても音近かったなー。
交通事故でもあったのかと外を見ようと、顔を上げて、窓を見た。

なかった。

窓が、なかった。

「えええええ!!??ちょっと待ってよ、何これ!?ドッキリ?ドッキリなんだよね!?」

うとうととしていた頭が一気に覚醒し、机に手を置いて立ち上がった。
粉砕されたガラスの破片が床に散らばっている。

まるで、 ミ サ イ ル が 当 た っ た か の よ う に 。

嫌な予感が頭を過ぎり、これはきっと現実になるのだと第六感が告げる。
銀さんや神楽ちゃんが帰った時に文句言うだろうから片付けなきゃな、と雑用で養われた心が悪かった。
危険を大声で伝えるベルに耳を傾けていればよかった。

ふっ、と暗くなった。
光が遮られて出来た影だと理解したのは随分後だった。
目の前には、目にしても信じがたい現実があったからだ。



          天使が現れた。



風になびく雪のように白くて細い髪、白磁器かと見間違う肌、重力を感じさせないふわりとした動き。
あまりに現実的でないそれらに、羽根をプラスすれば、僕は本当に天使だと信じただろう。
その人の唯一である人間的な部分、『包帯で隠している両目』、がなければ。

鳥の羽根が地面に落ちるようにすたっ、とその人は屋根から降りて入って来た。
歩き方は至って普通なのに、綺麗だ。まるで人形みたいだ。
新八は爆音と突然の来訪者に固まっていたが、やっと頭が動き始めたようだ。

「えーと、どちら様で?」
「……坂田銀時はいないのか?」

凛とした芯のある、涼しく通る声。
歌声のように優しく鼓膜を震わす見た目通りの美声が、身体に沁み込んで行く。
銀さんの名前を出したから依頼を頼みに来たのだろうが、本当に人間なのだろうかと疑問に思ってしまう。

「依頼ですか?銀さんなら買い物に行ってる所ですから、すぐに帰って来ると思いますよ」
「…そうか。ありがとう」

ふわっと微笑んだ顔に見惚れてしまった。
本当にとても綺麗で、柔らかくて、優しくて。
言葉には形容し難かったのだけれど。

「あ、あの、どうぞ座ってください」
「いや、大丈夫だ」
「………」

沈黙が流れる。

あの、すごく気まずいんですが…。何を話せばいいのかな。
やっぱり依頼のこと?でも銀さんがいない時に聞いてもなあ。
依頼人にはまともな人がいないけど、この人の出で立ちもかなり不可解だ。
両目に包帯巻くなんて正気の沙汰じゃないよなあ。

「なあ」
「はいっ!」
「傘を貸してくれないか?」
「傘、ですか?ちょっと待ってください」

雨傘でいいのかな。神楽ちゃんみたいに傘で戦う、とかは考えられないし。
新八は自分用の白い傘を手に持った。

「言い忘れたが、濃い色の方が嬉しい」
「…先に言ってくださいよ」
「すまない」

傘置きに戻し思案する。
銀さんの傘を貸したら後で怒られるよなー。
神楽ちゃんの傘は持てないだろうし。てか、日除け用に持ち歩いてるんじゃなかったのかな?
無難にお登勢さんに借りてこよう。決定した所で、傘の姿が忽然と消えた。

「…あれ?」
「借りる。壊したらすまない」

目の前にあった傘が一瞬でなくなるとか信じられないよね。
うん、信じられない。

「あの人、一体何者?」


神楽ちゃんの傘を持ってくなんて。



町の通りを少し外れた暗がりの路地裏。
家が立ち並んだ間の隙間は数人並べそうなほど広いが、人の声は全く聞こえなかった。
か細い高い声が弱々しく拒絶を示した。

「あの、やめてください」
「いいじゃん、俺と付き合ってよ。悪いことなんて何にもねェだろォ?」

紫色のシャツに黒いダボダボのパンツ。
ピアスやネックレス、指輪もたくさんつけているが、田舎の香りが漂っている。
美的センスを問いたくなる服装をした、サングラスを掛けた金髪の男が女を壁に追い詰めている。
何とも分かりやすい状況だ。

「私、あなたのこと全然知らないし…」
「あ?んなもん関係ねェ」
「でもっ」
「がたがたうるせェな。顔しかいいとこないんだから、さっさと俺の物になれよ」

男は女の肩を掴み勢いよく壁に押し当てた。
衝撃で痛みが伝わり、女は怖さに身体を震わしながら、瞼をぎゅっと瞑った。
せっかくの休暇なのにどうしてこうなるの!?

ドスッ

「無理強いは嫌いだな」

恐る恐る目を開ければ、輝く光のような髪が眼前一杯に広がっていた。

「怪我はないか?」
「は、はい!」
「ならよかった」

声色だけで優しい人だと感じる。
人のことを気遣ってくれる、守ってくれる、人。
かっこいい…。

「おい、何イチャイチャしてんだよ!」

白髪の男に鳩尾に蹴りを食らわされた不良男だったが、復活したらしい。
よろけながらも壁に手を付き、白髪の男を睨み付けた。
確かに、少女漫画的に見れば、今の状況は恋心が芽生えるシーンだ。

「俺のどこが悪いってんだよ、アア?流行最先端の格好じゃないか!かっこいいだろ!?」

ビシィ、と親指で自分自身を指す。
白髪の男は口元に手を当て唸り、答えた。

「…自分でかっこいいと言うのが悪いんじゃないか?ナルシストはモテないぞ?」


ナルシスト。


不良男の頭に単語がぐるぐると回る。
告白して断られる度に言われた、ナルシスト、という言葉。
面と向かって言う者はいなかったが、友達の紹介で好きになった人なら、そういう噂は聞いてしまう物で。

「それと、服を買って来たのは母親じゃないだろうな?マザコンも嫌われる要素だぞ?」


マザコン。


不良男は石化して割れた。効果音をつけるならガーン、だろうか。
身に覚えがある。
誇れる人間になれ、と父親に言われ、自分を磨いてきた。
親を大事にするのはいいことだ、と小さい頃に言われて、それからずっと母親を尊敬し慕ってきた。
いつからだろうか。それが気持ち悪いと言われ始めたのは。

「うっせェな」

どすの利いた声が響く。
男がチャラチャラした雰囲気から一変して、場が緊張に包まれる。

「自分を磨いて何が悪い。母親に孝行して何が悪い。お前にゴチャゴチャ言われたくねェんだよ!!」

不良男の叫びが反響し木霊して鼓膜を揺さぶる。
男は怒りに身体を震わせ……。怒りではなかったらしい。
メキメキと音がし、男の頭からは三角錐が二本生え、腕は太くなり爪は長く鋭く尖り、
口には口元からはみ出るほどの牙が生えていた。


その姿は、正に、


「ヒッ、お、鬼っ!!」
「…天人か」

白髪の男は舌打ちをして、両手を口元に当てた女の耳に口を寄せた。

『いいか、あいつは俺に引き寄せておくからその間に大通りに出ろ。
助けは呼ばなくていいから、この場から少しでも離れてくれ』
『それじゃあ、貴方があの男の餌食に!』
『大丈夫だ。…それに守りたい物が守れなきゃ、男が廃るだろう?』

口の端をにやりと上げて、白髪の男は笑った。
女は拳を握り締めて自分に言い聞かせた。大丈夫、この人なら頼りになる。
チャキッと音がして、金属が空に掲げられる。

武士の魂である、刀。

肘を伸ばし、鬼の位置に合わせると、白髪の男は左手を添えた。

『タイミングを合わせろ』
『…はい』

白髪の男は左足を一歩後ろに下げ、靴で地面を擦った。

「行けッ!!」

短く叫び、男は鬼に向けて足を踏み出した。
その姿を見ないで言われた通りに一目散に走り出す。一秒でも早く、一歩でも多く。
後ろで何かがぶつかり合う音が聞こえた気がしたが、女は足を緩めることはしなかった。



「…この位まで来れば、平気、かな?」

肩を上下に動かしながら、整わない息で必死に空気を吸い込む。
あの場所から結構遠くに来て、人で賑わう町並みが見えて来た。
でも、本当に大丈夫なのかしら。天人相手に勝てる訳がない。やっぱり戻った方が…。

「お嬢さん、どうかしましたか?」
「あ、あのっ……」

髭を生やした大らかそうな男の人に話し掛けられ、一瞬躊躇する。
あの白髪の人は助けを呼ばなくていいと言ってたけど、私の所為で怪我、いや、それどころじゃすまなかったら。
この人ならきっと大丈夫。

「天人が暴れてるんです!」
「…天人が?」
「男の人が急に鬼になって、私を逃がす為に、白い髪の人が戦ってるんです!!」
「………」

信じて、貰えない?
私だってこの目で見ても信じられなかったけど、でも、このままじゃあの人が殺される。
女は男に必死で訴えかけた。

「本当なんです!早くしないとっ!」
「…確か、トシと総悟が見回り中だったな」

男はポケットから携帯を取り出し、ボタンをいくつか押し、耳に当てた。
頭をぽりぽりと掻きながら、相手が中々出ないのか、眉を顰めている。

「あー、トシか?…近くの路地裏で天人が暴れてるらしい。
……ああ、鬼の成りをしてるそうで、白髪の一般人が襲われて
………おい、何だ今の爆音。え、トシ?おおーい!!」

プツッ

「………」
「………」
「「……………」」

顔を合わせて笑っておいた。


「って、何ですか今のォォ!笑ってすむ問題じゃないでしょう!?」
「落ち着いて。心を安らかにすれば怒りは静まります」
「静めてどうするんですかァ!!」

女の言うことは尤もなのだが、男は見当外れの返答をするばかりで、会話が噛み合わない。
男も真剣に考えてはいるのだが、彼の真面目が頼りになるとはお世辞にも言えない。
会話のファールを繰り返している二人を遠巻きに通行人が歩いていく。
もう駄目だわ。

「お嬢さん、お名前は?」

背後から掛けられた声に慌てて返事をする。

「け、結野と申します」

銀色の髪をした男は結野の言葉を聞くと頬を上げた。
波打った銀の髪、着崩した着物、呆けている瞳、ぽりぽりと身体を掻く姿。
そして、出で立ちに似つかわしくない、腰に差した木刀。


侍ッ!!


「あのっ、助けてくれませんか。白髪の人が天人に襲われてるんです!」
「大好きな結野アナの頼みとあっちゃ断れないよねェ。この万事屋銀さんがパパッと解決よ」
「万事屋の旦那、どうしてここに!」
「結野アナファンの情報網舐めンなよ?」

銀髪の男は上唇をぺろりと舐め、安心しろよ、と目配せをした。
結野は笑みを顔に浮かべ大きく頷いた。
この人なら大丈夫。あの白髪の人と同じ。信じられる。

「ストーカーは犯罪だぞォ!」
「お前にだけは言われたくねェよ!」
「俺はストーカーなんぞしていない!求愛行動をしているだけだ!!」
「クジャクかよ!それなら一発花火で一花咲かせろよ!!」
「あっという間に散るじゃねェか!」
「いいじゃねェか、それで。こちとらあいつの怒りの矛先が全部向かって来るんだよ!」
「怒りも全部ひっくるめて包み込むのが男だろ!」

……本当に大丈夫なのかしら、と心の中で思ったのは内緒にしておこう、と結野は誓った。