毎夜、夢に見る。
ドリームタイム
かつて戦場で共にしたソイツは万事屋の客として現れた。
戦いを好むわけではなく、物語を考えている方が好きだと言いながら、ならなぜ戦に参加するのかと聞けばどうしてだろうとはぐらかした。
周りが参加するからといた俺みたいな短絡的な性格ではなく、何かしらの思いがあってここにいるのは分かっていた。
だが、彼の持つ知識は彼を圧迫し、雁字搦めにしていくように見えたから、知りたくはなかった。
ここにいるのは戦うためであり、戦うことを望まれている自分から戦う理由を奪ったら、自分が存在する理由もなくなると思っていた。
もっと書きたかったけれど、時間がない。
頭の中に書きたいものが詰まっているんです。
だから私が死んだら脳を地面に撒いてください。
敬語でありながら熱に浮かされたような言葉に、束の間息を止めた。
奇抜な注文にもだが、そうまでして書くことに執着していたことに驚いた。
地に雨が降り、吸い込まれ、川を下り、海に行き、雲となり、やがて私は雨となる。
そうすれば、誰かが私の書きたかったことに気付いてくれるかもしれない。
口も手もなくす私の代わりに代弁してくれるかもしれない。
現実ではないどこかを見るような熱っぽい目をぼんやりと眺めながら、今夜は雨が降るかもしれない、と呆然と思う。
墨汁が注ぎ込まれていくように窓の外の雲は濃さを増していく。
お願いします。他に頼れる人がいないんです。
頭を下げた昔の同胞、数個の言葉を交わしたことしかないが、を見て面倒臭そうにくしゃりと頭を掻く。
手前ェには家族がいるんじゃねェの?
疑問を投げかければ男はびくりと分かり易すぎるほど体を揺らしたが、いません。もういなくなった、と小さく呟いた。
嘘を吐いているのは明白だったが問い詰めるのは億劫で、一応確認のために数個の質問をする。
いつまでにすればいい。出来れば早く、今日中にでも。と男は答えた。
お金は。少しばかり蓄えがあります。と男は言った。
依頼を終えたら残りはどうしたらいい。どうでもいい、任せます。と男は本当にどうでもよさそうに言い捨てた。
書きたいことはすべて頭の中にある。他の部分はそれを形にする道具でしかない。捨てるなり埋めるなり自由にしてください。
アナタに迷惑が掛からないように、何者かに追われて怯えていると周りの者に言ってあります。
殺されたのをアナタが見付けたことにすればいい。
用意周到な、と感心しながら鼻をほじる。
そうまでして死にたいかねェと小指に息を吹きかける。
どうせもうすぐ死にます。それなら自分の願う死に方で死にたいと思うのは当然でしょう?
お願いします。このままでは死んでも死にきれない。
再三頭を下げた男を見て、分かったよ、この依頼受ける、と男の後ろの壁を見ながら返事をする。
ありがとうございます、ありがとうございます、と涙を流してぺこぺこと頭を下げる姿に吐きそうになりながら、
じゃあ、明日の一時までに公園で死んでてくれる?と述べた。一瞬固まった男は、ええ、もちろん、と破顔した。
来た時と打って変わって軽い足取りを見送って、便所に駆け込んだ。陶器の容器に胃の中のものを吐き出す。
さっき飲んだイチゴ牛乳の人工的なピンク色が、便器の中でてらてらと光っている。
唾液を手で乱暴に拭い取り、口の中に残る酸味を洗い流そうと水道水を口に含んでうがいをする。
幾重の筋にもなってシンクに流れる薄いピンク色をした液体は、今夜流れるだろう血を思わせた。
前にもこんなことがあった。と唐突に思い出した。
刀を胸に差し仰向けに倒れている男を見て、記憶が甦る。
血溜まりが広がっているから絶命したのは随分前らしい。までに、と言ったのに甘美な誘いに待ちきれなかったらしい。
時計の針は一時を指している。ネオンが煌く通りから数本逸れた寂れた公園。
最近辻斬りが出るという噂があるここを選んだのは聡明な判断だ。俺はどこの公園も指定しなかった。
ここ以外で死んでいても人に見つからない公園は、歌舞伎町に住む誰にも思い付かないとは思うが。
これからの重労働を考えて溜め息を吐き、一旦受けたからにはしないと、と首を回す。
固くなった体を片足で踏みながら突き刺さった刀を抜き、僅かな電灯の光で刃こぼれがないか確かめる。
昔とは違う上物だ。あの頃は斬ると言うより力で引き千切るようだった。
赤く塗れて美しさを増した刀に、自分の姿が映る。狂気を宿した目が見える。
白夜叉、白夜叉。
彼らは南無阿弥陀仏と唱える代わりに俺の名を呼んだ。
仏よりも俺の方が自らを助けてくれると信じていた。俺はそんなヤツらが哀れで哀れでたまらなくおかしかった。
英雄と持てはやしながら人外のものと畏怖していたくせに。
縋るヤツらを殺したらどんなに気分がいいだろう、と幾度思ったことだろうか。
俺はただの人間でしかないのに。
知らず上がっていた口元を慌てて下ろす。
人気のない場所とは言え、うっかり笑い声を上げたらさすがに人が集まってくる。
刀についた血を飛ばし頭の位置を見定める。塵が舞う戦場がチラつく。
そう、前にもこんなことがあった。
いつものように俺は先陣を切って敵に飛び込んでいって、それまたいつものようにこっちの死体も天人の死体もたくさん重なり合った。
一つ一つを確かめて手を合わせるだなんてことする力も気もなくて、近くにいるヤツらを本部に戻らせるのが先決だと思い周りに声を掛けると、
思ったよりは多くの声が返ってきた。返ってこないこともざらなのに。
珍しいこともあるもんだと思っていたら顔触れを見て納得した。
どいつもこいつも獣の目をしていた。ヅラから気が触れたヤツらがいると聞いてはいたが、まさか早くも会えるとは思わなかった。
理性をどっかに置いてきたのだろう。今にも飛び掛らん猛獣のような気だった。
たとえどんな状態だろうと仲間は引き連れて帰らなければならないから、とりあえず歩き出した。
辺りに他の仲間は見えなかった。見渡す限り一面が砂と死体で構成されていた。
人間はなるべく避けていたが途中で面倒臭くなって踏み潰した。後ろのヤツらも同様だった。
炎天下の下、じりじりと熱が体を突き刺して体力を奪っていく。
背後の一人が言った。
喉が渇いた。
誰しも気持ちは同じだったが、誰も水は持っていなかった。物資が足りないから、配給される水からして少ない。
今持っているヤツがいたら奇跡よりもすごいんじゃないかと思った。本能で動くコイツらなら尚更のこと。
言わなくても分かりきったことを、と悪態を吐くとまた同じ言葉が聞こえた。
喉が渇いた。我慢できない。
一人が言い出せば他のヤツらも言い出して、五人だか六人だか(正確な人数はもう覚えていない)の大合唱が始まった。
喚いたところでどうにかなる問題でもないのだから早く帰った方がいいのは明確なのに、とうんざりしながら足を止める。
ならどうすればいい。俺は水を持ってねェ。全員は一様に動きを止めて視線を向けた。
ここに転がっているのは?無邪気にも似た声で問われる。
人間と天人の死体だけど水は持ってないと思うぞ、と答えると頭を振られた。
人の脳味噌って、何で出来てるんでしょうね。
血液が一気に落ちた。指先が冷たくなり逆に頭は熱くなった。
これで冷静に考えることは出来なくなったな、と遠くから俺を見ている自分は冷ややかに理解した。
喉が渇いた喉が渇いた喉が渇いた。
エサを強請る雛鳥のように口を揃えて水を強請る。
ガキの頃に世話したツバメの子供が見える。巣から落っこちたのを見つけて戻そうとしたものの、親鳥が警戒して戻せなかった。
そうか、なら水をあげないと。そうしないと生きていけないから。俺が育ててあげないと。
血の池の中で仰向けに倒れた男。刀を掲げて、振り下ろした。引っ掛かる、嫌な感触。
割られた頭蓋骨に手を伸ばし、脳味噌を貪り食う獣たち。
太陽が熱い。太陽なんて消えてしまえばいいのに。月も。
光なんて消えてしまえばいい。こんな醜いヤツらを一秒も見ていたくない。
刀を握り直し横に構える。消えてくれ、ぜんぶぜんぶ。これは嘘で夢で非現実だと、そう信じさせて。
やっと巣に戻った雛鳥が、体に染み付いた人間の匂いのせいで親鳥に殺される断末魔の悲鳴が、彼方から聞こえた。
ひたりひたりぺちゃぺちゃぺたりぺたりずるずる。
粘着質な音が響く。暗くてよく見えない。視界に靄が掛かっている。体が重い。
電灯が遠くにぼやけている。ゆれている。うごいている。こちらを照らした。
眩い光に反射的に目を閉じてゆっくりと瞼を開ける。驚愕で見開かれた目と視線が合う。
えーと、俺、何してんだっけ。つか、今は何時だ。真っ暗でよく分からない。そしてこれは誰だ?
ところどころ跳ねた黒い髪に、瞳孔の開いた灰色の目。猫みたいな、でも本質は犬。黒い服を着ている。
曖昧な中でそこだけは世界から切り離されたように見える。誰だっけ、コレは、誰。
「…よろず、や?」
あぁ、何だ、土方君か。夜の見回り?ご苦労様。大変なんだね。
あー、辻斬りが出るって噂あったものね、狩り出されたんだ。真選組って楽じゃないね。
張り込みしてたの?違う?たまたま来たの?へぇ、で、何でそんなに怖がってるの?化け物でも見るみたいなさ。
ちょっとー、いくら銀さんでもそこまで冷たいと傷付くからさー、やめてよー。
ね、どこ見てんの。銀さん、手に何か持ってたっけ。
ぬちゃり、と手から滑り落ちる液体。
手の中ではまだ固形だけれど、手はどんどん力を強めて形状を変えていく。
何だ、コレ。
「お前、何してん、だ」
俺の方が聞きたいよ。この手にあるものは何。教えてよ。
覚えてない。分からない。違う、思い出したくない、分かりたくない、知りたくない。
何も言わないで何も聞かないで何もしないで。
むせると口の中で妙な味がじんわりと舌に広がる。口の端からたらりと垂れる。
「俺、本当の鬼になっちゃったみたい」
自嘲して、目を瞑った。体から力が抜けていくのが分かって、また笑った。
おれはもうにんげんじゃなくておになのに。これだけのことでつかれるなんて。
くすくすと笑う自分の声が頭の中で繰り返し繰り返しリピートされて、いつしか雨音に変わった。
真っ白だ。すべてが白い。
天国に来たのかな、なんてそんな信心深くもいいこともしていないのに思う。
モザイクを掛けたものがいくつか見えるが、ぼやけてよく分からない。まだぶれている視界に嫌気が差しながら見つめる。
行ったり来たりと慌しく動いているものに触れようと左手を伸ばそうとして何かに阻止される。
鎖が巻き付いている。邪魔だ。いらない。アレに触りたい。
自分だけが世界に取り残されたような心細さに、俺はガキかと笑って鎖を引き千切る。
圧迫されて動かなくなった左腕をだらりと垂らしたまま起き上がって手を伸ばす。
触りたい。掴みたい。俺に気付いて。おれをつれていって。
あとすこし。嬉しさに笑おうとして、手は虚空を掴んだ。
「手前ェ、何してんだッ!!」
鼓膜に響く音。聞き覚えのある、聞いたばかりの、声。
汚れたガラスに水を垂らしたみたいに視界がみるみるうちにクリアになっていく。
黒猫が睨んでいる。なぜだろう。
エサをあげなかったからだろうか。飼われているのだからエサなどいらないだろうに。
可愛がって欲しかったのだろうか。猫は自由を好む生き物だというのに。
何が欲しいの?欲しいものがあればあげるよ。俺が持っているものでよければ。何だって。
問い掛けるように微笑みかけると黒猫は吼えた。
しにてえのか。
それが欲しいものなのだろうか。残念ながら俺にはそれが分からない。
それはどこにあるものなのか、どんなものなのか知らない。
けれど強請るからには俺が持っているものなのだろう。子供のように駄々をこねているようには見えないから。
俺はどうしたらいいかな。
聞けば左頬に衝撃を感じた。熱い。
黒猫が泣いている。いや、泣きたいのに堪えて、泣きそうな顔で唸っている。
「しっかり目ェ覚ましやがれッ!!」
ぽたぽたと顔に温かいものが降り注ぐ。口の中に入った。しょっぱい。
海の水が降っている。猫の中に海がある。灰色の目の奥に光の差し込まない海底があるんだろう。
俺はどちらかと言うと中から見る海より外から見る海の方が好きだけれど。海と空の境目が分からない延々と続く青が。
眼前に広がるのは、海だろうか、空だろうか。
俺が今いるのは、海の中だろうか、外だろうか。
青い青い海だか空だかがある。俺の三十センチ先に。
光で形成された世界に、あぁまたか、と溜め息を吐く。
いつになったら抜け出せるのだろうか。永遠と繰り返されるんじゃないだろうな。
起き上がろうとして叶わなかった。腕が動かない。足も動かない。胴も動かない。
首が唯一動く。力を入れると頭にずきりと痛みが走るが眉を寄せて無理矢理動かす。
ぱたんと左に頭を向ける。誰かがうつぶせになって寝ている。
椅子に座りながらベッドに持たれかかって寝るなんて、器用だなと思いながらいつもより跳ねが酷い黒髪を見る。
身だしなみをしっかりしない男はモテないよ?まぁ、モテない俺が言ってもしょうがないんだけど。
寝息を立てる姿があまりに子供っぽくて思わずぷっと吹き出す。なーにが鬼だよ、喧嘩が好きなガキじゃねェか。
忍び笑いを立てているとガキは目を覚ましたのかんーだかうーだか言いながら目を擦る。雨が降るかな。あ、いや、コイツ猫じゃなかった。
ひじかたくん。
小さな声で呼ぶと彼はガバッと起き上がり目を見開いた。あまりの慌てようにこちらがビックリしてしまう。
彼は何かを言おうとして言葉にならずに口をつぐんだ。変なの。
眺めていると彼は駆けて行った。黒い尻尾が見えた。いやいや、だからコイツは人間だから。
笑っていると見知った顔が入ってくる。
いつもの顔と違ってピリピリとしているのが感じられて、頭を掻きたいと思った。こういう空気は苦手だ。
「おーおー、真選組が揃いも揃って何ですか」
返事がない。え、なに、無視されてんの?俺。酷くねェ?
避難がましい目を向けていると土方君の隣にゴリラが、右側に沖田君が座った。
何コレ、尋問みたいな感じなんですけど。俺容疑者?この拘束も容疑者だから?
いや、つか、ここまでいったら容疑者じゃなくて犯人だよね。えええ、マジでか。
ナイだろ、それはナイだろ?刑務所に入れられて禁固何年とかナイだろ?終身刑、とか。
いやナイナイナイナイ。ナイと信じてる!
「…万事屋」
「ね、これどういう状況?さっぱり分かんねェんだけど。
ここは?病院?え、銀さん、健康には自信があるんだけど。
それとも尋問とか何か?いやいや銀さん善良な一般市民なんだけど。
どゆことコレ。一体全体何がどーなってんの?」
矢継ぎ早に質問を浴びせると近藤は眉を八の字に曲げて口を閉じた。
おいおい、俺の質問に答える気はゼロか。隣の土方君に目線を向けるも同じように押し黙っている。
「旦那ァ、何も覚えてねェんですかィ?」
「…何もっつうか、実際問題、何でここにいるのかまったく分からないんだけど」
「断片的でもいいですゼ。何でもいいから覚えてること」
「そう言われてもなー。……イチゴ牛乳?」
「は?」
「雛鳥。水。黒猫。海」
単語しか思い出せない。重要だったはずなのだけれど、個々が繋がらない。
自分で言っていてわけが分からない。相手も同じように頭に疑問符を浮かべている。
質問すんなよ、説明出来る気しねーから。えーとえーとあと、何だっけ、もひとつあった。
「あー、あと、オニ?」
空気が凍りついたのが見えた。急激に凍ったために小さな皹が入っている。
寒ィ。暖房入れてくんねェかな。ぶるっと身震いをすると気付いた土方君が髪を撫でた。俺ガキじゃねーっての。
「すこし寝てろ」
起きたばっかりなのに変なことを言う。でもまぁ眠いからありがたくお言葉に甘えるとしますか。
熱を持ち始めた頭が枕に沈み込んでいく感触がした。
幻と分かっていたけれど、白いシーツに沈み込む自分を誰か掴んでくれないか、と願った。
俺の中にはオニがいる。俺の体の中に人間とオニがいて、奇妙な同居をしている。
いつからいるのかは知らない。気付けば素知らぬ顔をしてそこにいた。
顔と言ってもソイツと出会うのはいつも夢の中で、しかもいつも暗闇の中だった。
アッチが見せたくないのか、俺が見たくないのか、たまたまなのか、それは分かりかねたけれど、
別に見たいとは思わなかったし不都合もなかったから考えてはいない。
ソイツと話さなければいけないわけでもないし、なぜだか今は夢だと分かっているから殺される心配をする必要もない。
時が経てば境界線があやふやになって、瞼を開ければ太陽の光が差し込む朝になっている。
非現実なその空間を、俺は少し好きでもある。
周りのおかげか、(せいと言ってもいいと思うのだが、そう言うとアンタのせいだろ、と返されるのがオチなのでおかげとしておく)
非現実に近い生活を送っていると自負しているが、どうやっても日常から逃れることは出来ない。
日常を嫌っているわけではなく、どちらかと言えば好きなのだろうな、と漠然と思いはするけれど、どうしても日常から逃げたいと思うことはある。
そうすると決まって夢を見て、オニと会う。
会話はないのが普通なのだけれど、時たま二言三言交わすこともある。
本当に二言三言。意味のない会話を。しかし会話と言っていいかは大いに疑問だ。
会話は言葉のキャッチボールなんて言われるのに、アイツとは成立した例がない。
ちゃんとボールもミットもある。下手くそでデッドボールの連続、なんてわけでもない。
投げても暗闇に消えてしまって、あっちが投げた球もどこかに消え失せてしまうのだ。
待てば落ちてくるだろうかと思えば落ちた音は聞こえない。ブラックホールに吸い込まれるように球が見事にその姿を消してしまう。
前に手品かと尋ねたら、確かに手も品も使ったがタネはない、と返された。
意味が分からなかったが、アイツにもこの現象の理由が分からないことは分かった。
よく考えればキャッチボールは成り立っているのかもしれない。
酷く分かりにくいけれど、おぼろげな形でなら彼の言葉が理解出来る。
俺に似てひねくれ者なのだろう、やけに捻じ曲がった言葉を使うが、俺はひねくれ者だから分かる。
そう考えていけば今までのは会話と言っていいんじゃないだろうか。
お前は誰、と聞いたら、お前は誰、と返されてハァァ?と首を傾げたこともあったが、
お前が何者なのか、という問いに、俺の言うお前とは誰を指しているのか、と聞き返したのだろう。
考えるにアイツは自分が何者なのか知らないのだろう。暗闇との境目も分かっていない。
自分はここにいるけれど、どこからどこまでが自分かは分からない、ということなのだろう。
推測ばっかりで頭が痛くなってきた。普段頭で考える前に動いてしまうから、知恵熱が出たのだろうか。
あぁ、また推測。明確な事実がどこにもない。つか、事実ってどこにあるんだ。
証拠があれば事実になりえるのか、目撃者がいれば事実になるのか、事実は事実であるから事実以外の何者でもないのか。
俺は哲学者には向いてないらしい。答えのない問いなんて不毛なだけだ。
ていうか、ここ夢の中だ。オニがいる。声を掛けては来ないけれどいるのが分かる。
でもいつもと違う。苦しんでいる。呻き声が反響してわんわんと頭を揺さぶる。
大丈夫か。返事がない。どんな質問にも無愛想ながらも答えがあったのに。
なぁ、どうしたんだ。足を踏み出す。どこにいるか分からないから勘で。
オイ、風邪でも引いたのか?怪我でもしたのか?言わなきゃ分かんねーぞ。
近付くなと警鐘が鳴り響くのを無視して走り出す。
弱っているヤツを見捨てられるほど、人間を捨てた覚えはない。たとえ鬼と呼ばれても。
オニ?
そこにいるのは、本当にオニか?
オニは何だ、何者だ。
俺はオニを知っているはずだ。
そこにいるのはオニか?
いいや、俺だ。
血に塗れながらうっとりとオレは笑った。
はっはっはっはっはっ。断片的に繰り返される荒い呼吸。
どこかに向かって逃げているはずなのに、辺りに広がる暗闇のせいで進んでいるのかも分からない。
足がもつれ、舌が乾いて張り付き、息をする度に喉が痛む。
歩みを止めちゃいけない。走り続けなければならない。
誰に言われたわけでもないのに、言葉が繰り返される。
逃げなければ、逃げなければ。
捕まらないように逃げなければ。
追いつかれないように逃げなければ。
何に、誰に。分からない。分からないけれど逃げなければならない。
本能が危険を察知している。何か危ない、俺を傷付けるものが追ってくる。
ぬかるんだ地面。薄い空気。重たい体。
進みたいのに進めない。早く、一歩でも前に行かなければならないのに。
ガクリと左足が動かなくなる。足首を掴む、白い手。
嫌だ。捕まるのは嫌だ。逃げなければ。
離れろッ!!手で掻き毟って、足で削ぎ落とす。
増殖する手に侵食され、黒い世界が白く姿を変えていく。
沈黙を保つ闇を消してしまう夜明けの太陽のごとく。
眩しさにきつく目を瞑る。ゆっくりと開けると同時に騒音が耳に入り込む。
強烈な光を浴びせるスポットライト。喚く観衆。間を隔てる高い塀。
ここは、煉獄関?あの騒動で消えたはずじゃなかったのか?
敗者には罵りを、勝者には賛美を。
お金のために命を賭ける者と、娯楽のためにお金を賭ける者。
人間の醜さが詰まった闘技場。
唇を噛み締めると鬼の面を被りながら、子供たちを愛した男の顔が浮かぶ。
あんなモン、アンタにゃ似合ってなかったよ。
けど、俺は何でこんなとこにいるんだ?
疑問を感じてきょろきょろと辺りを見渡すと、視界が狭まっていることに気付く。
手と顔との間にある木の板。でこぼことした装飾が施されている。
震える手を徐々に上へと伸ばしていく。うそ、だろ?
上部にあるのは二つの尖った、
「勝者、白夜叉!!」
積み重なった屍から血が足元へと流れてくる。
動かない誰かの体。息をしていない。死んだ。
おれがころした。
「うわあああああああ!!」
見慣れてしまった白い天井。黒猫が俺の顔を覗き込む。
曇り空の色をしたガラス玉。光が差し込めばキラキラと輝くのだろう。雨が降っているのが残念だ。
左手を伸ばすと彼は一瞬戸惑いを見せ、両手で包んだ。
「水、飲むか?」
首を小さく横に降る。蔓延する湿気のおかげか、喉は乾いていない。
しとしととレースのように降る雨。
「雨、弱まって来たな」
「ん?…うん、そうだな」
水滴が付いた窓を見やる彼はどことなく憂いを帯びた顔をしている。
皺の寄った眉間に指を当てようとすると眉を寄せて逃げられる。伸ばしてあげようと思ったのに。
「触んな」
「土方君って、俺に触られんの好きじゃないよねー」
「手前ェのふにゃふにゃしてるとこも嫌ェだよ」
それって髪の毛のこと?
今日みたいな雨が降ってる日は、ほんっと大変なんだよ!天パの苦しみを知れ!!
ストレートのヤツはいいよな、まったく。
なんてちゃかすことはせずに心の奥に仕舞って純真さを装う。
「じゃあ、何でここにいんの?」
「そ、それは…。…雨ン中突っ立って入院したってお前ンとこのメガネに聞いたんでな。笑いに来てやったんだよ」
「何それ、酷いなー」
嘘を吐くのが下手な可愛いヤツ。耳、真っ赤になってるよ。
「ね、いい?」
意味を含ませながら口の端を上げると聡い彼はすぐに気付いたようで、ぷいと顔を逸らされる。
「…いちいち聞くなっ」
赤く染まる耳が愛らしくて思わずついばむ。
期待が外れて不安げな視線とかち合い微笑んだ。
あたたかい。
確かに存在している証。
優しさに包まれながら、そっと目を瞑った。
「大丈夫だ、近藤さん。へまはしねェ。アイツは、絶対にここから出さない」
作られた箱庭は、残酷なほど優しさに満ちている。
中島敦「山月記」を読んで。