消去。
消えてなくすこと。
それが幸福であっても、不幸であっても、消去された物は甦ることはない。
割れたガラスが完全に元に戻ることがないように。
ある人は、記憶を消去した。
ある人は、自我を消去した。
正しい選択だったのかなんて誰にも分からない。
そもそも選べる物でもなかった。
望んでいても、望んでいなくても、彼らはそうするしかなかった。
分かることは一つ。
僕は今、消えたい。
コットンキャンディ ヲ ソラ ニ ウカベテ 5
火口室長が長髪の美人と暮らしている。
そんな馬鹿げた噂が飛び交い始めたのは、今朝からだった。
昨週の金曜日、火口が女性の手を引っ張り、家に連れ込んだのを見た人がいるらしい。
当の本人は欠勤だ。
こんな噂が本当の訳はない。でも、やっぱりという思いもある。
一向に進まないペンをデスクに置き、大きく伸びをした。
窓から見える夕焼けは消えようとしている。
消える間際に一際輝く時間が、僕は好きだ。
晴天の下の太陽ではなく、闇に飲み込まれようとしている太陽の方が美しい。
堂々としている様が、その時ばかりは儚く見えるだからだろうか。
「…年、取ったかな」
ぽりぽりと頭を掻くと、鞄が揺れた。
プライベート用の携帯だ。
家族からが主な為、着信音ではなく、バイブにしている。
人が居ないことを確認し、耳に当てる。
「仕事中には掛けてくるなって言ってるだろ。後で掛け直すから、機嫌悪くしないでくれよ」
くっくっと笑い声が聞こえる。
妻より随分声が低い。いや、聞き覚えがあるこの声は。
「火口!?」
「っ、お前随分尻に引かれてんだな」
「ば、馬鹿にするなよ」
変わりのない声に安心する。
乱暴な言葉遣い、低く響く声。
火口は火口なんだ。
「で、何か用?言った通り、仕事の真っ最中なんだけど」
「少しサボったって平気だろ。うちに来てくれないか。会わせたい奴がいるんだ」
会わせたい奴?
それは僕より大切な人?
その人と一緒に暮らすの?
口を開けたまま、火口の声が右から左に流れていく。
「おい、聞こえてんのか?」
「聞こえてるよ」
「なら、返事くらいしろよ」
「僕は行かないから!黒い長髪の美人と仲良くしてればいいだろ!!」
部屋に叫び声が反響する。
はあ、はあ、と肩を大きく上下し、荒くなった息を整える。
重い空気がどんよりと残る。
「……っは、ははっ、お前、ほんっと、面白ぇ」
「へ?」
時々音がぶれる。
受話器を持ちながら笑い転げているらしい。
また、笑われた。
「あ〜、腹痛ぇ。笑わせんなよな」
火口が勝手に笑ってるだけだろ。
頬を膨らませ、見えないとは分かっていても携帯を睨み付ける。
「黒髪美人?ああ、そう言やそうだ」
「僕よりその人の方がいいんでしょ。どうぞご自由に」
「…嫉妬か?」
耳にずんと響く低音に身体が震える。
この声に僕が弱いの、知ってるくせに。
「悪いかよ。昨日、家に連れ込んだのを見た人がいるんだから」
どれだけ怖くなったか知らないだろう。
僕は用済みになったのだと思った。
火口が僕に微笑みかけてくれることはなくなるのだろうと。
「…紛らわしいことして悪かった。いるのは手間の掛かる黒猫だけだ」
野良猫でも拾ったのか?そんなに猫好きだったっけ。
火口の話からして、いるのが女の人ではないのは決定だ。
とりあえずよかった。
「猫の世話でもしろって言うの?」
「ああ。俺一人じゃ手一杯でな」
「分かった。すぐ行く」
火口が猫に手間取っている姿を想像すると笑えてくる。
似合わない。
近くの紙に「早退します」とだけ書いて、部屋から出た。
太陽は見えなくなっていた。
「ひ〜ぐ〜ち〜」
白いシーツが張られた大きなベッドが中央に鎮座している。
柔らかな光を放つランプがぼんやりと部屋を照らし、包み込む。
最小限の物しか置いておらず、生活感がない。
ホテルのような無機質な印象を受ける。
「お前、言ったよな?」
心の中で静かに怒りが燃える。
清潔感のある石鹸の匂いが鼻腔をくすぐるが、この思いは消えそうにない。
震える手を握り、唇を噛み締めた。
「これのどこが猫なんだよっ!」
人を指してはいけません、と母に言われた気がするが、今はそれどころではない。
上質なシートの上には火口が座り、前に置かれた椅子には奈南川が座っていた。
「わがままな黒猫だろ?」
奈南川の髪をタオルで拭きながら、火口は口の端を上げた。
乱暴な手付きに奈南川は文句を言うこともなく、されるがままにしている。
先ほどから部屋に充満していたのは、シャンプーの匂いだったらしい。
そういえば、火口はさっぱりした匂いが好きだったっけ。
「って、何で奈南川がここにいるんだよ」
何だか力が抜けて、コートを脱ぎ捨てて火口の隣に座り込んだ。
ぎしり、とベッドが軋むが、全然大丈夫そうだ。
元々一人暮らしにしては大き過ぎるベッドだから当たり前だが。
生活必需品には金の糸目をつけない性格だと知ってはいるけれど。
「話すと長くなんだよな」
「…どういうこと?」
「めんどいから後でな。ほら、交代」
湿ったタオルを渡され、思わず眉を顰めた。
何も教えてくれない火口の態度も気になるが、こんなので拭いてたんじゃ風邪を引いてしまう。
「ドライヤーで乾かせば早いんじゃない?」
「髪が痛むだろ」
「でも、このままじゃ風邪引くよ。ねえ、奈南川」
名前を呼ぶが、返事はない。
冷酷な部長と言われているが、仕事の面だけで被る仮面だと知っている。
年や容姿についてとやかく言われるのを嫌う彼が身につけた処世術だ。
プライベードでは、フレンドリーとは言わないが、会話が成り立たないことなどない。
「奈南川?」
訝しんで、再び名前を口に出す。
やはり答えはない。聞こえていないのか?
口に出そうとしたが、眼前に出された手によって阻止された。
「え?」
「後で話す。風呂入ってる間よろしくな」
「あ、うん」
どこから出してきたのか、真新しいタオルを手渡される。
ふわふわとしているが、貰い物なのだろう、少し埃っぽい。
持ち主のがさつな性格が表れている。
気持ちだが、タオルを両手で開き数回上下させ、奈南川の頭に乗せた。
苦しげな表情をした火口が気掛かりだったけれど、必ず話してくれると信じている。
さらさらとした髪の水分を取ろうと、身を乗り出した。
ふわり、と一瞬甘い香りがした気がした。
振動が身体を揺さぶり、心地良さに瞼を閉じる。
かくんと首の力が抜けて、頬杖にしていた右腕がガラス窓にぶつかり、慌てて目を開く。
「寝てていいぞ」
「でも」
「ほとんど寝てないだろ。黒猫の世話、任せちまったから」
黒猫と形容したまま直さない火口がおかしくて、少し笑ってしまった。
昨日会社を早退し、奈南川の世話を頼まれて、ほぼ一晩寝ていない。
反抗されることはなかったが、睡眠を取ろうともしない。
生きていく為に必要なことを拒否している、いや、興味がないのか?
火口は説明もせずに寝てしまったので分からないが、その姿があまりに危うげで、先に寝ることが出来なかった。
疲労していた身体が先に悲鳴をあげ、車に乗せる時には目を閉じてくれたが。
「だから寝とけ」
ハンドルから外した右手が、頭上にぽすんと置かれる。
大きく無骨な指が髪を梳くが、短髪な為、すぐに指から逃げていく。
「安全運転を希望」
「っくく、そりゃあ悪かった」
悪びれもしない口調だったが、優しさは伝わって来たので、言われた通りに目を瞑る。
強力な睡魔に襲われ、夢の世界へと身を委ねた。
闇に染まる町並みを人工的な光が照らす。
時刻は三時。
まだ、町は起きていない。
「…何これ」
場所を尋ねるよりも、ここにあるのが何なのかを聞いてしまった。
それだけ、目の前にある物は不可思議で理解しがたかった。
五階ほどの高さで、売り出されていても不思議ではない、古びた普通のビルだった。
窓が全て真っ黒な以外は。
「入るぞ」
「こ、これに!?ある意味お化け屋敷より怖いって!」
「知り合いがいるんだ。置いてくぞ」
お化け屋敷のような分かりやすい怖さではなく、得体の知れない物が潜む怖さ。
火口は既に奈南川の腕を掴んで引っ張っている。
ドアの向こうに消えた二人を急いで追いかけ、ドアに手を掛けると、思ったよりも抵抗があった。
片手で軽々と開けていた火口を尊敬する。
体重を前にぐっと掛け、未知への扉を開いた。
室内では蝋燭が端々に置かれ、闇の中で浮き上がっていた。
足場が悪く、自分の足元はよく見えない。
本当のお化け屋敷だったりして。
…笑えない。
「っ痛。何だこれ?」
柱にぶつかったのかとも思ったが、違うようだ。
ほぼ暗闇に近いこの空間では見るのは不可能なので、手探りで物体を確かめようとする。
平たい太い柱が中心にあって、横に二本の細い柱がくっついている。
上に手を滑らせると丸い物に手が当たった。
光で、一瞬、人の顔が落ちていくのが見えた。
「―――――!!ひ、火口っ」
奈南川、と続く筈だった文は途中で消えた。
自らの悲鳴によって。
脇腹をするりと撫でられる感触。
闇の中で一人になり、頭がパニックに陥っていた。
普通、反射的に叫ぶだろう。
「うわあああ、お化けー!!」
「失礼ね、脚ならあるわよ」
部屋が明るく照らされると、今までの光景が嘘のように骨董品が置いてある洋館が浮かび上がり、
ということはもちろんなく、散らかった作業場が広がっていた。
足元には誰かの服、(けどサイズがバラバラだ)、ドライヤー、四角く黒い箱などが落ちている。
目の前にあるのは、マネキン人形だった。
僕一人が勝手に驚いてたってこと?
「って、どこ触ってるんですか!」
叫び声を間近で聞いたにも拘らず、このお化け(人間と判明したけど)は、手を休めようともしない。
下から撫でるように左手を滑らせ、右手はお尻を擦った。
「や、やめてくださいってば。ん、やだ。あっ…」
「なーにしてんだ、お前は」
15や30cmの長さではない、製図用の定規がお化け(仮)の頭に当たった。
その先には仏頂面をした火口がいた。
嬉しかったが、定規の面ではなく端の尖った所をぶつけて大丈夫なのだろうかという思いが勝ってしまう。
「火口、やりすぎじゃ?」
「こいつにはこれくらいでいいんだ。放っとけ」
雑多した物の中に仰向けに埋もれてるけど、窒息はしないのだろうか。
流石に、人を見捨てるようなことは出来ないし。
不安に思って、しゃがみ込んで身体を起こそうとしたのが悪かった。
「ひぐちん、愛がないわ〜」
「え?」
疑問を唱えたのと、お化け(仮)の顔が近付いたのは、全く同時の出来事だった。
焦点が合わなくて顔がぼやけるのもいいかと思った。
現実を受け入れなくてすむから。
「て、てっきりひぐちんだと思って…。あんたがそんな所にいるから悪いのよ!」
「俺の所為かよ!大体、会ったらすぐにキスする奴がいるか!」
「私アメリカ育ちだし?ほら、生活習慣って中々抜けないものでしょ?」
「お前、生粋の日本人だろが…」
「あっははー」
「こら、逃げんなー!!」
二人の漫才、(本人達はわざとやっている訳ではない)、にも突っ込めないほど頭が動かない。
ぺたりと床に座り込んだまま、動けない。
火口は舌打ちをして左手を顔に当てると、溜め息を付いた。
走り回っていたお化け(仮)を捕まえると、只でさえ怖い顔で睨みを利かせた。
「謝れ」
「へ?えーと、目が据わってるんだけど…」
「葉鳥に、謝れ」
息を呑んだ。
ミスをした部下を叱り付けているのはよく見かけるが、心の底から怒りが煮えたぎっている姿を見るのは初めてだ。
「聞こえなかったか?」
「っ……申し訳ありませんでした。本当に反省しています」
死刑宣告を下すような火口の声に、お化け(仮)は姿勢を正し、深々と頭を下げた。
ふざけた口調は消え、部屋が張り詰めた緊迫感で埋め尽くされる。
「い、いえ、僕こそ悪かった、です。すみません」
火口とのやり取りを見ていると分からなかったが、しっかり区別は付ける人なのだろう。
礼儀正しく、自分の非を認める潔さ。
かっこいいかもしれない。と思ったのも束の間。
「そうよねー。もう、ひぐちんたらキス位でヤキモチ焼いちゃって。そんな所も可愛いんだけど」
スイッチのオン、オフを切り換えたかのごとく、先程までの誠実な青年は消え失せた。
恐ろしい二面性。
この人、絶対腹黒い。誰かのように。
『三堂に似てる』
図らずも同じ言葉を発していた。
火口と顔を見合わせると、笑いが零れてしまって止まらない。
本人は分からず困惑している。思う存分笑ったおかげで苛立ちが消えた気がする。
「ちょっと、ちょっとー、何の話よ?」
「仲間外れが嫌いな所も似てる」
「変態な所もな」
「うん……あ」
一体誰の話をしてるの、と呻くお化け(仮)に背を向け、部屋の隅に立っている奈南川を見る。
三堂という単語が出ても平常だ。心配する必要はなかったな。
「ところで、何しに来たの?」
「ああ、頼みごとがあってな」
「ひぐちんの頼みはいいことだった例がないわ」
「いいだろ。昔の好って奴だ。それとその呼び方やめろ」
「はいはーい。それで頼みって?」
火口は口を閉じ唾を飲み込んだ。
こんなに朝早く、人気のない時間に来たからには、よほど重要な用なんだろう。
固唾を呑んで見つめる。
「ドールを二体」
「へ?」
「だろうと思った。ま、他に私の出来ることはないしね」
僕の言葉は無視か…。
まあ、僕は火口の使用としていることも、この人の名前も知らないんだから。
ん、名前?
「あの、名前なんて言うんですか?」
「こいつの名前?…カマでいい」
「か、カマ?それってオカ」
「すごい勢いで誤解しないで!私はそっち系じゃないの」
真摯な目で見つめられても、手を両手で掴まれると説得力がないんですが。
う〜んと唸って観察してみると割と普通、いやかっこいいに入る部類だ。
明るい茶色の髪が顔を明るく、しかし、焦げ茶色の眼鏡が引き締めている。
ストライプのスーツが程好く筋肉が付いた身体の魅力を存分に引き出していた。
喋らず口を閉じていれば、仕事のできる憧れの上司は間違いなしだ。
僕が考えていたそっち系の人とは雰囲気が違う。と思う。
会ったことないから分からないけど。
「うん、確かにそっち系じゃないかも」
「分かってくれた!?私の名前は鎌井舘(かまいたち)。よかったわ。
私は只、『美の追求』をしてるだけなんだから!!」
かっこいいサラリーマンは消え、そこにはお巡りさんを呼びたくなる変質者がいた。
喋らなきゃいいのに。
葉鳥と火口が心の中で全く同じことを考えていたのは偶然ではなく、必然だろう。
5と6は1話だったんですが、長いので分けました。
前は車の前で分ける筈だったので、長くなってしまいました。
6では鎌井舘さんを更に活躍させますよー(&ナミと葉鳥が…)