空に線が引かれていた。
遠くのビルを見ても途切れることはなく。
大きく緩やかに空を渡る。

「明日は雨が降るな」

昔の人の知恵なんて、いつも一蹴しているのに。
仕事とプライベートの差の激しい自分に自嘲する。

空気中に含まれる水蒸気が多く、飛行機から出されたガスが消えないために現れる雲。

そう考えると、実に科学的だ。

「……雨はあまり好きじゃないな…」

気分が滅入るのは、明日の天気か、それともバツを書かれたようでか。


飛行機雲。
青空の中、暫し姿を留める。
静かに警告を鳴らす。



コットンキャンディ ヲ ソラ ニ ウカベテ 3



「降らない…」

見事に太陽が顔を覗かせている。
やっぱり古人の知恵は役に立たない。
天気に似つかわしくない、バッグの中に入った傘を眺めて溜め息を吐いた。

この所、うまくいかない。
部下は最初こそ歓迎してくれたが、説明するのが面倒臭いというのが見える。
お荷物を背負ってしまったと思っているのだろう。
実際に自分にこんな上司がいたらやりにくいとは思う。

「まあ、私にどうすることも出来ないんだが」

奈南川 零司という人物だけは違う。全て丁寧に教えてくれる。
数個の企画のことを同時に聞いても、的確に答えが返って来る。
彼がいてくれて助かっている。
いつしか、二人の時は敬語を使わない、というのが暗黙の了解となった。

「痛っ」
「ぼけっとすんな」

視界が揺れて、頭にじんわりと痛みが広がる。
すかさず手で押さえ、痛みを与えた主を睨んだ。

「火口っ。何もその分厚いファイルで叩かなくたって」
「お前が飛んでるのが悪い」
「はいはい」

記憶をなくした以外に、仕事がうまくいかない理由があるのは分かっている。
自分で分かっていながら、解決する策が思いつかない。
相談する相手もいない。

「火口ならいいかな…」

人に媚びない性格で、私に対して敬語を使う気はないらしい。
感化されて、私も火口に対しては使わなくなった。
左肘をデスクに置き、頬を乗せる。
ぱらぱらとファイルを捲る。

「あのさ。…笑うなよ?」
「笑わねぇよ」

一見軽そうだが、口は固い。
会社内で安心して喋れる者の一人だ。
一呼吸置いて、口を開いた。

「好きな人がいるんだ」

若かりし学生の頃のようだ。
好きだ、嫌いだ。言葉一つに一喜一憂していた。
火口を見ると、バツが悪そうな顔をしていた。

「仕事に持ち込むことじゃないって分かってるさ。でも、考え出すと」
「いや、別にいいと思う。誰にだって息抜きは必要だ」

珍しく真っ当な意見を聞いて驚くが、微笑む。
自分ではおかしいと思っていた。
今までにこんなに一人に執着したことはなかった。

「告白したのか?」
「してない。迷惑を掛ける気はない」
「した方がいい」

青春を謳歌する若者。
何年、何十年前に過ぎただろう。
今更恋の一つに頭が一杯だなんて。

「そう、か?」
「ああ。後で後悔する羽目になる。諦めがつくだろ……あいつだって」
「あいつ?」
「いや、なんでもない」

ファイルを閉じて、火口の方に向き直る。
本当は心の中に秘めておくべきだと思っていたけれど。

「………分かった。決心がついたらな」
「遠い未来の話だな」

自分が慎重深い性格であることを知っている。
でも、話してよかった。
渦を巻いたまま絡まっていくのを放っておかなくてよかった。
すぐにとは言わないけれど、考えて結論を出せればいい。

「アドバイスありがとう」
「お前に礼を言われると気持ち悪いな。借りにしておく」
「ああ、分かった」

火口の口調には嬉しさが溢れていた。
だが、瞳に迷いが混じっているのには気付かなかった。



地面が色濃く姿を変える。
湿気は嫌いだが、濡れた草木を見るのは好きだ。
町全体が変わってしまったようで。

人通りが少なくなるのも理由の一つだ。
たまには静かに過ごしたくなる時もある。
今日でなければ嬉しかった。

「傘持って来てないのに…」

飛行機雲が見えた次の日は快晴だった。
今日は車ではなく電車を使って会社まで歩いて来た。
清々しい風が気持ち良かった。

それなのに、こうなるとは。
止みそうにもない雨を睨み、駅まで走るかとかばんを両手に抱えた。

「三堂」
「あ、はい?」

短距離走でフライングした人が居た時みたいだ。
経験はないが、こんな気持ちだろう。
走り出そうとした足に急ブレーキを掛ける。

「奈南川。不備か何か?」
「その、よかったら入るか?私も今日は歩いて来たから」
「…本当!?ありがとう!」

持つべき物は、やっぱり友だね!!
三堂が笑いかけると、奈南川はそっぽを向いて紺色の傘を広げる。
かなり大きい。これなら二人で入っても大丈夫そうだ。

「私が持つよ」
「でも…」

年上に持たせる訳にはいかない、と困り顔を浮かべる奈南川から、奪い取るようにして柄を掴む。
年齢関係なく、背の高い奈南川が持つ方が自然だとは思う。

「いいの、いいの。奈南川には助けてもらってるし」

けれど、私は彼に頼ることが多い。
奈南川には愚痴を聞いてもらったり、苦労を掛けている。
迷惑だとは思っていないかもしれないが、負担はあるだろう。
少しは恩を返しておかないと。

「そうか?じゃあ、頼む」

奈南川に高さを合わせると、若干手を上げなければならないが、それでもいい。
雨は強まり、水溜まりに入る度にぽちゃん、ぽちゃんと音を立てる。

「子供の時以来だな。水溜まりに足を突っ込むなんて」
「それは生意気な子供だったんだろうな」
「私にも純粋な時代くらいあった!」

馬鹿にされたことに腹を立て、わざと水溜まりに足を入れる。
ぱしゃんと氷が割れるような音がして、水飛沫が上がる。

「っ、何するんだっ」
「お返しー」

べっと舌を出すと、奈南川は仏頂面の口元を上げた。
子供が悪戯を思いついたかのように。

「冷たい!!」
「お返しだ」
「大人気ないなー、もう」
「どっちがだ」

言い争い、子供のようにはしゃいだ。
泥水が上質のスーツに掛かっても構わずにやり返した。
傘は意味をなくし、革靴はふやけて使い物にならないだろう。
それでもお互い止めず、顔の筋肉が痛くなるほど笑った。

「ははっ。腹が痛い」
「こんなに笑ったの久しぶりだよ」

大の大人が二人で水の掛け合いをする。
なんて馬鹿馬鹿しい光景だろう。
馬鹿らしくて涙が出る。
シャツや髪が張り付いて気持ちが悪い。

「濡れたじゃないか、この馬鹿」
「ごめん、ごめん。でも楽しかったでしょ?」
「……悪くはなかった」

遠回しに言う奈南川の長い髪が濡れて輝き、頬に雫が垂れた。
まるで泣いているみたいだ。
気が付いたら、頬に触っていた。

「…三堂、どうかしたか?」

白く冷え切った肌は氷のようだ。親指で雫を拭い取った。
顔に張り付いた髪を丁寧に取り除いてやる。
黒い瞳が不安げに揺れる。

「天下の冷酷部長がこのざまじゃね」
「吹っかけて来たのは貴様だろう」
「まさか乗ってくるとは思わなかったんだって」

いや、違う。私は分かっていた、彼が私の誘いを断る訳がないと。
ちょっとばかり無茶なことも、彼は引き受ける。
記憶喪失の友人が哀れだからか?
視線の中に含まれている感情の名を、私は知っている。

あれほどうるさかった雨音が聞こえない。

灰色の空が時を止め、傘が世界を二人きりにした。
ありえないことを簡単に信じられる自分がいた。
本当にそうなればいいと願っていたから。

「奈南川…」

頬を優しく撫でた。
彼がくれる優しさには遠く及ばないけれど。
自分の名前を呼ぼうとして消えた声が、耳に届く。

「三堂、何をするつもりだ」

分かっていないのか?
私にあんなに優しくしておいて。

「好きなんだ」

手を頬から頭後方へと移し、口付けた。
飢えた獣が貪るように口内を犯す。
身体とは対照的に、舌は別の生き物のように熱かった。

「零司」

あの日から、君は私のことが好きだろう?
恋しそうに見つめられて、気付かないとでも思ったのか?

壁に押し当て、奈南川のネクタイを緩める。
露になった白い首元に舌を這わせ、唇を寄せて吸った。
艶かしい鬱血の跡が残る。

「…零司、愛してる」

細い腰に手を回し、脇腹に手を入れ、張り付くシャツを脱がしていく。
私の物にしたい。
黒い髪も、瞳も、肌も、腕も、脚も。全て。
再び柔らかな唇に触れる。

「っ……」

舌先に亀裂が入り、染み出てくる鉄味の液体が不愉快だ。
胸を押され、一瞬息が止まった。
突き飛ばした奈南川は雨の中へ飛び出していった。

「待てよ、零司っ」

声は届かず、雨が地面に叩きつける音が延々と聞こえていた。
音もなくガラスが崩れたことには気付かなかった。













三堂が酷い男です。
片思い、片思いで、両思いにならない、がコンセプトなんで。
まあ、あそこでムラッと来ない方がおかs(殴