噴水は綺麗だと思いますか?
人工的に作られた輝きでも。
自然には存在しない、偽りの美しさでも。

雨が降る音、煌き、上がった後の虹の鮮やかさ。

それらよりも、綺麗だと思いますか?
偽物を追い求め続けますか?



コットンキャンディ ヲ ソラ ニ ウカベテ 2



痛い。
頭が、腕が、腹が、背中が、脚が軋んで悲鳴を上げる。
叫びを無視して起き上がる。
時計を見ると、普段より一時間早い。
必要のなかった目覚ましを解除する。

「ふう………」

身体を引き摺り、洗面所へ向かう。
水が勢いよく手に溢れ、顔に掛けた。
パシャッという軽快な音を数度響かせる。
五回目でやっと目が開いた。

「冷たい…」

寝起きは酷いとよく言われる。
覚醒するまで、人より少し時間が掛かるだけだというのに。
顔が武士のようになっていることを知らないまま、奈南川は再び顔に水を浴びせた。
冷たさに徐々に頭が動き出す。
白く柔らかいタオルに顔を突っ込む。

そうだ、これは夢じゃない。
現実を受け入れなければ。
眠るたびに嘘だったのではないか、起きたら何も変わっていないのではないかと思う。
どれも、ただの杞憂に終わるのだが。

鏡を見ると、寝ぼけ眼の自分が見返して来た。
目薬を手に取り、注した。
二、三度瞬くと、目の奥が冷えてくる。
これで大丈夫だ。
鏡には、『第一営業部部部長』が映っていた。


彼が彼ではない。
たったそれだけのことが、私に重く圧し掛かる。
けれど、もう慣れた。
過去を悔やんで何になる。
より良い未来を作る方が大事じゃないか。

「奈南川部長、書類が出来ました」
「ああ」

ざっと目を通す。
他の部署にも回される書類だ、ミスがあってはいけない。

「…大阪ではなく神戸、85年ではなく82年だ」

間違っている箇所を指で叩いていく。
二箇所か。新入社員にしては少ない方だろう。

「訂正しておいてくれ」
「は、はい。申し訳ございませんでした」

走り去っていく部下を見て、肩の力が抜けた自分に驚く。
気を張りすぎているのか。
自分らしくないと、髪をくしゃりと掴む。

「部長、面会を希望される方が」
「誰からだ」
「…経営戦略部部の三堂部長です」

罰が悪そうに告げた女性社員を視界の隅に追いやる。
社内では私と三堂の関係は駄々漏れだったらしい。
彼が記憶をなくしてからというもの、全員が白々しくて嫌になる。

「どうぞ」
「失礼します。今、時間よろしいですか?」
「ええ」

冷静に受け答えする自分が別人のようだ。
自分ではない誰かが代わりに喋って、私はそれを上から見ている。
頭に不快な声が響く。

本当は大声で言いたいのに。
お前の事を好きだと。
決して犯してはならないタブーと知りながら。

「はい、分かりました。いつもありがとうございます」
「大した事じゃありません。何かあったらすぐに仰ってください」
「本当にありがとうございます」

彼が笑顔で礼を言っているのが見える。
やはり彼ではない。
私の知っている彼は、外面だけの笑みは私には向けなかった。

「頼りにしています、奈南川部長」

微笑んだ顔は、人形のように綺麗だった。


「部長、どちらへ?」
「トイレだ」

不機嫌そうに椅子を立つ。
この階の一番奥のトイレは利用者が少ない、皆無と言ってもいい位だ。
足早に廊下を抜け、体当たりしてドアを開ける。

「はっ、はっ…っ」

奥にある個室に駆け込み、荒い息を整える。
ドアを閉め、便座、ではなく床に座り込んだ。
スーツなんて気にしていられない。

手入れされた、白く輝く便座に手を掛ける。
目に痛い色だ。
ぼーっと見ていると引き込まれそうになるり、喉元から熱い物が競り上がって来る。

「…っ…うっ、あ…っう……」

逆流する感覚。
酸味が口内を支配する。
口に入れた物が再び戻ってくるという気持ち悪さ。

「がっ、っは、おえっ…」

胃の中が空になり、胃液しか出なくなっても吐き続けた。
喉が痛みを訴えだし、息を吐いた時に口の中に残る嫌悪感に視界が滲む。

彼が罪を犯したというのだろうか。
記憶を無くすに相応しい罪を。
私が罪を犯したというのだろうか。
幸せな日々を無くすほどの罪を。

私達は罪を犯した。
人を殺した。
けれど、仕舞いにはキラに殺される者達だった。

なら何故、神はこんなにも無情な仕打ちをなさる?

白い便器にぽとんと涙が落ちた。
口を濯いで、顔を洗って、奈南川部長に戻ろう。
レバーを捻ろうと手を伸ばした。

「壊れるぞ」

外から掛けられた野太い声に手が止まる。
かなり近くから聞こえる。
口の中に残った物を無理矢理飲み込んで胃に戻す。
不快感に眉を顰める。

「…VT事業部はよほど暇なんだな」
「何処かとは違い、部下に気を使わせないからな」

嫌味を言えば、無感情な声で返事が返される。
あの会議での年長者。
出世は遅いが、周りを見る目は確かだ。
人のことに関しては特に敏感で、見た目に合わない性格だと思う。

「尾々井、私は迷惑なんて掛けていない」
「……あれはお前の所為ではない」

会話が成り立たない。
尾々井と話す時は、彼の話が終わってからでないと話せない。
彼の趣味、ガンに関しては喋ることも出来ないが。
自分のペースには持ち込めそうにない。
頑固なこいつに合わせるしかないか。

「…あれは事故だ。私が悔やむ必要などない」
「なら、どうして自分を追い詰める」
「追い詰めてなどいない!」

口元を拭い、舌打ちをした。
私があの時出来たことなどない。非などない。
悪いのは彼を突き落とした奴だ。

「いつか壊れるぞ」
「もう、壊れてるさ」

彼と私を繋ぐ物は既に壊れて消えた。
関係など、取り繕った物があるだけだ。

「……死ぬぞ」
「死なない。彼が生きている限り」
「脆すぎる支えだ」
「私にとっては、大樹だ」

彼が死ねば、私は生きる意味をなくす。
けれど、彼が易々と死ぬ訳がない。
突き落とされても、少しの記憶をなくし、少しの怪我をしただけだった。
どん、とドアに物が当たる。

「…よくそこまで一途になれるな」

呆れているのが声から分かる。
自分でも馬鹿だと思う。

「しょうがないだろう。好きなんだから」

彼が私を友人としか見ていなくても。
私に恋愛感情など持っていなくても。
愛しているというこの感情は消えることはない。

「……そうか」
「これでいいんだ」

報われなくていい。
私が彼を愛した三ヶ月は消えはしないのだから。
記憶をなくしたのが私ではなく彼でよかったなどと思ってしまう。
なんて私は卑しいのだろう。

「……そう言うのなら、俺は何も言わない」
「………」

安堵して、レバーを倒す。
渦が全てを飲み込んでいく。
この思いも流れていってしまえばいいのに。

ドアを開けると尾々井が呟いたのが見えたが、聞こえなかった。
尾々井は表情を変えず、奈南川を見つめていた。

「届かない大樹に意味はない」

サングラスで見えない瞳が心配しているのが見える。
仕事の時と変わらない態度で、そんなに優しくしないでくれ。

「一人で全てを背負い込む必要なんてない」

根の張った大木には手が届かず、折れそうな脚で踏ん張っていた。
脚にめきめきと皹が入る音を聞かないようにしていた。
もし包帯を巻いてもらったら、二度と立てない気がして。
私は恐れていたのではなく、弱い自分に呆れていたのだというのに。

「うっ、っ、うぁっ…」

私に必要なのは、支えてくれる人だったのに。
嗚咽と涙が溢れた。


久しぶりに、人の温もりに触れた気がした。













……苛めるのが大好きです。
奈南川と尾々井はこんな関係だといいと思う。
は、ハッピーエンドのはず。