綿菓子のような雲が浮かんでいた。
水のように透明な、淡い水色の空に。
本当に水に綿菓子を浮かべたら、消えてしまうのは明白だ。
でも、一度浮かべてみたい。
綿菓子が溶けた水は、ふんわりと柔らかく、それはそれは甘いだろうから。
コットンキャンディ ヲ ソラ ニ ウカベテ 1
会議室のデスクに肘をつき、息を吐いた。
会議はよくあるから慣れているし、苦ではない。
問題は、今まで取引をしていた会社の契約打ち切りを伝えなければならない、ということだ。
社内では、切り捨てる時は容赦ない、と言われているし、自身でもそう思っているからいい。
無駄な物は必要ない。
けれど、相手がはい、そうですかと引き下がってはくれない。
煽てつつ、説得させなければならない。
「はあ」
体力は使わないし、どう言えば後腐れなく出来るかも分かっている。
頭の回転が速いと、こういう時に楽だ。
どっと疲れ、後の仕事に今一つ身が入らなくなるだけだ。
物分りのいい相手だといいが。
「三堂部長、到着されました」
「お通しして」
入って来たのは、髪が殆ど白くなっている初老の男性だった。
祖父、父、と代々家業を受け継いできたという。
この男性の代で品質が落ち、工場は潰れていっている。
こういうタイプは頑固なんだよな。
「失礼します」
「どうぞ、お掛けになってください」
「はい」
さて、どう切り出すか。
「あの、すみませんが窓を開けてもよろしいですか?煙草の臭いは苦手でして」
「あ、はい」
「私がやりますよ」
男性に制され、立ち上がったまま動きを眺める。
自分は煙草を吸わないが、前に使った者の中にいたのかもしれない。
気にならなかったが、言われてみれば臭いがする。
大きな窓から風が吹き込み、身体が震える。
景観を重視しているのだろうか。やけに大きい窓だ。
「すみません。どうも駄目な物で」
「いえ、こちらこそ気付かずに申し訳ございませんでした」
机を挟んで椅子に座る。
多人数で使うのが主なこの会議室に二人でいると、広く感じる。
「今回お呼びしたのは、貴社との取引の件でして」
「………」
「あまり売り上げが芳しくないんですね」
資料を渡し、折れ線グラフを指す。
最初は良かったのだが、時代の流れには逆らえず、業績は右に行くに連れ下っている。
今でこそ黒字だが、いつ赤字になってもおかしくない。
「そう、ですね。注文は減ってきていますし」
「いい物をお作りになられますが、当社とはご縁がなかったということに」
「…打ち切り、ですか」
「はい」
「……………」
男性はグラフを見て押し黙った。
逆上しなければ楽なのだが、そんな相手には会ったことがない。
「申し訳ございません」
「いや、これでは切られるのも当然だ」
珍しくすんなりと事が運ぶ。
手間取らずに済みそうだ。
「では、納品は今月までということに」
「…私は、お前のような若造が大嫌いだ」
男性は顔を上げ立ち上がった。
目には怒りと殺気が篭もっている。
本能が危険を告げる。
「落ち着いてください。椅子にお掛けになって」
「呼ばれたかと思えば、世間を知らないお坊ちゃんが出てきた。
お前に何が分かる。私の苦労が分かるのか!?」
目を血走らせ怒鳴り出した男性を止めるには、冷静に対処するのが一番だろう。
しかし、世間知らずと言われたのは気に食わなかった。
親が政治家ということで期待され、どこに行っても「三堂 英吾議員の息子」になる。
愛想を良くし、常に人の顔色を窺って生きてきた。
楽して、この地位を得たわけではない。
「…知りませんね、そんな物」
「何だと!?」
「親が築き上げてきた物を食い潰すような貴方の苦労なんてね」
どれだけ周りの理想に近付くために努力したと思っている。
本心を出さず、上っ面だけの笑顔を浮かべてきた。
欲しい物は諦めてきた。
その辛さを知っているというのか。
「っ、馬鹿にしおって」
胸元のシャツを握られたかと思うと、背中に固い感触を感じた。
壁に追い詰められていたらしい。
鼓膜を破りそうなほど強い風が、顔に打ち付けられる。
「お前なんてっ!!」
空と、薄い雲が見えた。
何かに似ていると思ったが、思い出せない内に意識が途切れた。
眩しい。
蛍光灯の光が目に突き刺さる。
瞬きをすると大分慣れ、白い天井がぼんやりと見えた。
会社、家、ホテル。どれでもなさそうだ。
とりあえず起き上がろうとした。
「っ…。痛、い?」
無理に身体を起こすと、包帯に巻かれた右手が目に入る。
これじゃあ、ペンを持つことは叶わそうだ。
動く左手で身体を触ると、腹部、背中にもかなりの量が巻かれていた。
机に置かれていた眼鏡を手探りで取り、つけた。
「ん?」
頭にも巻かれている。打ったのだろうか。命拾いをしたな。
脚には怪我はないようだ。全体的に大した怪我ではない。
右手が治れば、すぐに会社に戻れるだろう。
「芯吾っ」
「母さん。どうしたの?」
「落ちたって聞いて。大丈夫なの?」
「心配するほどじゃない。大げさだな」
「良かった…」
ベッド脇に座り込み、左手を握り締められた。
痛いが、まあ、一人息子だから過保護になってもしょうがないだろう。
クリアになった視界で見渡すと、どうやらここは病院の個室らしい。
軽症で個室ということは。
「父さん…」
ドアが開かれ、父の姿が目に入る。
権限を持ってすれば、個室など容易く用意できるだろう。
親に縛られたくないと思いながら、守られている。
「わざわざありがとうございます」
「息子のためだ」
母とは話す機会が多いが、父とは幼い頃からあまり喋った事がない。
家にいることが少なく、会話が他人行儀になってしまう。
「別に問題はないな」
「父さんのおかげです」
父は少し空気を緩めると、椅子に腰掛けた。
心配してくれたみたいだ。
古風な人だから、感情を表に出すのが苦手なのだ。
とんとん、とドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
奈南川と火口と葉鳥は、二人に会釈をした。
葉鳥は白や黄色の淡い色の花束を母に手渡した。
「芯吾さんにはいつも助けられています」
「いえ、こちらこそ」
奈南川が挨拶をすると、火口は椅子に座り込み、舌打ちをした。
「わざわざ来てやったんだ。感謝しろよ」
「……あ、うん…」
優しさに、歯切れの悪い返事をする。
火口は葉鳥と話し始めた。
「まあ、こいつが簡単にくたばる訳ないと思ってたけどな」
「もう。三堂、怪我痛くない?大丈夫?」
葉鳥は三堂の右手をぎゅっと掴んだ。
痛いに決まっているだろう!
軽く睨むと、すぐに手を離した。
「ご、ごめん…」
「怖ぇ、怖ぇ。八つ当たりすんなよ」
奈南川は三堂の顔の隣に座った。
身体中から安堵している。
「無事でよかった…」
瞳は潤んで、充血している。
食事を取っていないのか、頬が少しこけている。
奈南川は三堂に微笑んだ。
「心配させるな」
笑った顔が綺麗だ。
氷のように冷たく、柔らかな肌に触りたい。
…何を言っている?おかしい。
奈南川は三堂の顔を覗きこんだ。
黒い瞳、黒い髪。
透き通るように白い肌。
中性的な顔立ち、身体つき。
頭がくらくらする。
疑問が頭の中を巡る。
言 わ な け れ ば い け な い 。
「お会いしたこと、ありましたか?」
ガラスの割れる音がした。
「み、三堂。冗談キツイぞ」
「貴方達にもお会いしたことはないと思いますが」
「嘘だろ…」
何を言っている?
親しい口を利くが、面識なんてないだろう?
「俺達のことが分からないのか?」
「分かるも何も初対面でしょう。名前を教えて頂いてもよろしいですか?」
可笑しな質問をする人だと笑うと、世界が歪んだ。
火口は左手で三堂の頬を殴ると、肩で荒く息をする。
右頬がじんわりと熱を帯びる。
「……何をするんですか」
「っ。…悪かった」
「火口、どこ行くの!?」
「会社に決まってんだろ。葉鳥、戻るぞ」
乱暴に開けられたドアが軋んだ音を立て抗議する。
葉鳥と呼ばれた男が、黒髪の男を立たせ連れて行く。
ドアの前で立ち止まり、振り返った。
「本当に、覚えてないの?」
「だから、会ったのは今日が初めてでしょう」
「奈南川のこともかよっ」
「なみ、かわ?」
首を傾げると、黒髪の男が俯いた。
聞いたことがない名前だ。
「すみませんが、知りません」
「……………」
「謝らなくていいですよ。助かっただけでも儲け物です」
「おいっ」
「早く退院してくださいね。経営戦略部は、トップがいなくなって大変なことになっていますよ」
「…貴方は?」
いぶかしみながら尋ねると、黒髪の男は笑った。
何故だか仮面のように見えた。
「同僚で友人の、奈南川 零司です」
「もう行こうっ!」
「では、失礼します。お大事に」
「…ありがとうございます」
二人は足早に部屋を出て行った。
母が看護士を呼びに行ったらしく、廊下が騒がしい。
気が動転している。ナースコールという物があるのに。
同僚、友人…。
それなら、あの口の利き方も納得がいく。
「ナミカワ レイジ」
小さく呟いた。
口が言い慣れていることに、違和感を覚える。
記憶の中に彼の顔はない。
けれど、心の中にぽっかりと穴が開いたようだ。
友人という物より、もっと大切な物を。
私は、一体何をなくしたんだ?
頭の中には、延々と白いキャンバスが続いていた。
「尾々井 剛、樹多 正彦、紙村 英、鷹橋 鋭一…」
顔写真と簡単なプロフィールが書かれた紙を見る。
尾々井という人が届けてくれたのだと母が言っていた。
あの後、医者によって記憶喪失と判明した。
結果、分かったのは一つだけ。
七月からの記憶だけが抜け落ちている。
頭は正常に動き、身体に異常はない。
プロジェクトは聞いたこともない物ばかりだったが、たった数ヶ月だ。
部署にはすぐ戻れる。
「葉鳥 新義、火口 卿介…」
この二人は見舞いに来ていた。
宣伝戦略部部長、新技術開発室室長。
彼らと私に繋がりがあったというのか?
話すことはあったと思うが、仕事でだろう。
友人というより、どちらかと言えばライバルになりそうだ。
「……奈南川 零司…」
第一営業部部長。父はヨツバアメリカ本社社長。
時機に社長の座を譲り受けるだろう。
彼も二人と見舞いに来ていた。同僚で友人だと言っていた。
「友人…」
口に出してみるが、あまりしっくりこない。
それほど親しいわけでもなかったのだろうか。
あの日、彼のことを知らないと告げてから、彼は終始作り笑顔をしていた。
自分を見ているようで嫌になった。
「…あんな笑い方、いつもはしないのに」
言ってからはっと気付く。
何故、そんなことを知っている?
名前すら知らなかったのに、時折口から記憶が漏れる。
これ以上思い出そうとしても逃げられ、頭に痛みが走る。
鍵が掛けられて開かない。
「思い出すべきなのか、思い出さないべきなのか…」
思い出すと、何かが壊れてしまいそうで。
けれど、今この状況でも、頭の中で何かが壊れる音がする。
止めなければと思うのだけれど、私は止める術を知らない。
頭の中で何かに皹が入り、ぴしぴしと音を立てる。
「壊してはいけない物。…そんな物を持っていたのか?」
また一つ、皹が入った。
次
受けより攻めが記憶喪失になる方が好き。
ヨン←ナミで、シリアスです。
てか、三堂だと冬○ナに被ると、今更思った…。
(1/13改正)