甘い匂いが立ち込める中で、ピンクのエプロンを付けた。
砂糖、生クリーム、卵、バニラビーンズ…。
キッチンには胸焼けがしそうな食材が並べられている。
自分の格好を鏡で見てしまい、消えてしまいたいと思う。
それもこれも、わがままな恋人のせい。
苺と生クリームと恋人と…
「っうー、よく寝たー」
残業は当たり前の毎日の中で、潤いを与える休暇。
現在、十時。
十時間の睡眠なんて何年振りだろう。寝過ぎて頭が痛い。
「ふわあ」
大きく口を開き欠伸をし、今日は何もせずのんびり過ごすかと思った時。
来訪者を告げるベルが鳴った。
知らない内にスーツを取り出していたことに気付き、箪笥に仕舞う。
ぶつくさ文句を言いながら、仕事である可能性もあるため、程々にラフな格好に着替える。
二階にある自分の部屋から、玄関まで階段で下りる。
腹の虫が盛大に鳴り、朝食を食べていなかったことに気付く。
今から作ってくれと言っても無理かな。
溜め息を吐くと、玄関に人影を見つけた。
黒のコートを羽織っていて、服装はよく見えない。
長い黒髪に、愛しの恋人であったらいいなんて思ってしまう。
営業用の笑顔を作り、声を掛けた。
「お待たせしまし……って、ええっ!?」
「うるさい」
振り返ったのは、不機嫌そうに顔を顰めた恋人だった。
僕は確かに休みだけど、ナミが休みだなんて聞いてないよ?
ということは、仕事で大変なことが起きたとか?
様々な事態を想定して、頭の容量がパンクしそうになる。
「分かった!アメリカ本社から社員を借りるべきか否かの問題だね。
確かに本社の実績は素晴らしいけれど、コピーになってしまっては意味がないと思」
「何言ってるんだ、お前は」
「へ?違うの?あ、じゃあ、イメージガールのこと?でも最近ぱっとしたアイドルってのがいな」
「そんなんじゃない」
「…ナミ、何の用件で来たの?」
奈南川は口を噤み、顔を横に向けた。瞳は心なしか潤んでいる。
ま、まさか別れ話とかじゃないよね?
もしそうだったら家中の鍵を閉めて、閉じ込めないと。
考えを口に出さなくてよかった。
「会いたかったんだ…」
本当にしようかと、一瞬考えた。
三堂が感動の真っ只中にいると、奈南川は言った。
ショートケーキが食べたい。
スポンジに生クリームがたっぷりと塗られ、甘酸っぱい苺が乗ったショートケーキ。
コンビニでも買えるじゃないかと言うと、買うのは恥ずかしいと反論された。
今更恥じらうのか?
お土産を貰った時など、満面の笑みで食べているのに?
会社では奈南川部長のお土産は、絶対甘い物。とまで言われているのに?
「…買ってくればいいの?」
「いや。作って欲しい」
「作る?」
「お前は手先が器用だろう。レシピなら貰って来ているぞ」
ケーキを買うのは恥ずかしくて、女性社員からレシピを貰うのは恥ずかしくないってどういうこと?
……本人は気付かれてないと思ってるのか…。
甘やかし過ぎてるかな。まあ、それでもいいか。
「分かったよ」
「ありがとう!エプロンを貸してくれるか?」
「…一緒に作るの?」
「当たり前だろう」
休日に恋人に会えたことで、気が浮かれていたのかもしれない。
悪戯な心が悪魔の一言を囁いた。
「エプロンなら僕の部屋にあるよ」
「そうか」
「ナミ」
二階に上がろうとした奈南川に、三堂は笑顔を向けた。
「裸エプロンでねっ」
結果、右ストレート、フック、アッパー、ボディーブロー。
そして、男の急所に一発。
悶絶するような痛みを耐え、材料を揃えた。
冷蔵庫の中にある者で事足りた。
作るのは初めてだが、意外とシンプルな材料に少し安心する。
これなら僕でも作れそうだ。
奈南川に怒られ、投げられたのが、ピンクのエプロンだった。
可愛らしいキャラクターのマークがついている。
まさか三十路を過ぎてこんな格好をするとは思わなかったが、
拒否すると並みの機嫌が更に悪くなりそうだったので、しょうがなく着た。
火口に見られたら一生馬鹿にされそうだ。
「始めるぞ」
「あ、うん」
奈南川は黒の、至って普通なエプロンを付けていた。
上に置いてあったフリルのエプロンの安否が気になる。
カン、と金属音が響く。
隣を見ると、奈南川が卵を割っていた。
白く細い指で割る仕草は、絵になっている。
「砂糖」
「…はい」
泡立て器がボウルを擦る音だけが聞こえる。
卵黄と砂糖をマヨネーズのようになるまで混ぜ合わせる、か。
レシピに目を通し、少し面倒臭いな、と息を吐いた。
「ん?」
「三堂」と赤く書かれている。奈南川の字だ。
横の手順を見て、少しではないことが分かった。
「白身を泡立て器で混ぜ合わせ、ひっくり返しても落ちないようにします。大変ですけど、頑張って!」
女子社員の可愛らしい文字に、異様に腹が立った。
明日は絶対に筋肉痛だ。
「終わった…」
ボウルを頭上に掲げ落ちてこないのを確認すると、その場に座り込む。
腕も痛いけど、腰が痛い。
仕事中は椅子に座っているだけだもんな。
日頃の運動不足を反省する。
「遅い。次は卵黄のボールと混ぜるんだぞ」
「もしかして、それも僕がやるの?」
「私にやらせるのか?」
卵黄と砂糖を混ぜただけで疲れたらしく、奈南川はソファーに座った。
力仕事苦手なのは知ってるけど、数分混ぜただけだろ?
怒りが込み上げるが、僕が反論など出来ないことをナミは知っている。
「はいはい、分かった。休んでていいよ」
「そうか。ありがとう」
この笑顔に弱いんだから。
泡立て器でメレンゲを掬い、混ぜ合わせる。
馴染んだら、今度は卵黄と砂糖をメレンゲのボールに入れる。
泡立て器をゴムベラに変え、泡を潰さないように混ぜる。
薄力粉を加え、字が書けるくらいの固さにする。
型に入れ、オーブンで焼く。
レシピを要約するとこんな感じだ。
オーブンで焼いている間しかナミとくっついてられない。
生き地獄だよ、これじゃあ。
「飾り付けは私がやるからな」
「はいはい」
女王様。
冷やしたスポンジ、泡立てた生クリーム、苺、シロップをテーブルに置く。
キッチンから自分の部屋まで運ぶのは一苦労だった。
あの後、ハンドミキサーという物を見つけ、楽にスポンジを作れ、クリームも簡単に出来た。
世の中にはこんな物があるのか。
シロップは砂糖と水を鍋で煮詰め、ブランデーを加える。
苺は大粒で甘い高級品、ももいちご。
もちろん、生クリーム、小麦粉、砂糖、材料全て妥協はしない。
喜んでくれる姿が見たいから。
「私は上の飾りだけでいいぞ」
下はやれってことか。
スポンジを真ん中で切り、シロップをつけ、クリームを塗り、苺を乗せる。
途中で少ないと文句が来たので、溢れんばかりに乗せた。
「よいしょ、っと」
パレットナイフでスポンジにクリームを乗せる。
台を回して、上は平らにし、横にもクリームを塗る。
前に作っていたのを見たことがあるから、割と簡単に出来る。
「はい、どうぞ」
「ん」
絞り袋にクリームを詰め、手渡す。
横に座る奈南川は受け取ると、無邪気に笑って飾り始めた。
子供みたいだ。
一つ一つ小さな山が出来ていく。
一周ぐるりとケーキの上を埋めると、大量にクリームが余ってしまった。
「これ以上載せてもな」
「別に捨てても…」
奈南川は絞り袋から人差し指にクリームを絞り出し、舐めた。
瞳は閉じられ、伏せられた睫毛が微かに震える。
くぐもった声を時折上げる。
わざとやってるの!?
襲いたい。けど、今やったら完璧怒られる。
ケーキ食べ終わってからじゃないと駄目だろうな。
「ほ、ほら、苺乗せないの?」
「ああ、そうだったな」
小枝のような指で苺を摘まみ、乗せていく。
奈南川は苺を眺めると、ほんの少し齧った。
果汁が指を伝って手の甲に流れていく。
あの指を舐めたい。いや、食べ終わってからだ。
理性で歯止めをかけながら、ケーキを切り分けようとした。
「待った」
「え?」
「ホールで食べたい。夢だったんだ」
奈南川は嬉しそうに笑った。
この人、本当に三十歳男子なのだろうか。
フォークを渡すとケーキに豪快に突き刺し、口を大きく開けた。
あの口で僕のを…。
本人が聞いたら絶対に殴られるであろうことを、頭の中で考える。
「んまい。食べないのか?」
「…え、僕も食べていいの?」
「お前が作ったんだろう」
てっきり一人でワンホール食べるのかと思ってた。
フォークを手に取り、ケーキを口に入れた。
スポンジはちゃんと膨らんでいるし、初めてにしちゃ上出来だと思う。
「うん、美味しい。けど、甘い物はやっぱりあんまり好きじゃないな…」
「そうか?お前の味の好みは、女性と似ていると思ってたんだがな」
それはナミの方だろ、と突っ込みたいが抑える。
頬にクリームをつけてケーキを頬張っている奈南川を前に、理性を保つのはキツイ。
今すぐにでも押し倒したい。うっかりと口が滑った。
「食べないのか?」
「ナミなら喜んで食べるけど」
「別にいいぞ」
頭が真っ白になって、自分が何を言ったのかも分からなくなった。
奈南川の了承の言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。
「い、今何て?」
「別にいいぞ、と。…三堂は食べたくないのか?」
フォークを皿に置き、悲しげに俯いた奈南川を見て、三堂は慌てた。
そりゃ食べたいけど、何だかナミの様子おかしくないか?
誘って来たことなんて、今まで一度もなかった。
「どうしたの?急に」
「私がお前を誘っちゃいけないのか?」
「だって、今日のナミ、様子がおかしいよ?」
「……会社で火口と葉鳥が仲良くしてた」
ぶすっと奈南川は呟くと、ケーキを口に放り込んだ。
三堂は固まり、固まり、固まり、笑った。
「あの二人に嫉妬したの?」
「…目の前で仲良くしてるんだぞ。お前、今日はいないし」
ああもう、可愛いなあ。
「それで仕事サボって、家に来たんだ」
「会いたかったんだ。悪いか」
「ううん。すごく嬉しい」
顔が背けられ、髪で表情が読めない。
真っ赤な耳が見えて、照れながらも喜んでいるのが分かる。
三堂はクリームのボウルを取ると手で掬い、奈南川の首に乗せた。
体温で溶け、首元を伝う。
「んっ。何を」
「残ってたら勿体ないんでしょ?食べちゃわないと」
「お前、甘い物は嫌いだってっ」
舐めると、奈南川の身体が震えて口から吐息が漏れた。
クリームと同じように白い肌に唇を寄せ、強く吸う。
赤い所有印が出来る。苺みたいだ。
「あっ…んう…」
垂れて液状となったクリームを舐めると、求めるように手が服を引っ張る。
果汁で艶々と濡れた唇に、噛み付くようにキスをした。
クリームのおかげで、舌と舌が容易く絡み合う。
「っ、は、あんっ…みどっ、ぁっ」
甘い物は好きじゃない。でも、甘いナミは大好き。
クリームを元々どちらが口にしていた物なのか分からないほど絡ませる。
口を離すと、名残惜しそうに奈南川が三堂を見上げた。
「はあ、ん。三堂、もっと」
「うん」
その瞳も、唇も、髪も、指も、足も、全て僕の物。
残さずに食べてあげる。愛してあげる。
決してこの手を離したりしないから。
ああ、本当に愛しい、僕の恋人。
この所ヒグハトばっかりだったので、ヨンナミを。
甘々です。砂吐きです。私にはこれが限度です。
いや、まあ、これ以上も行けるっちゃ行けるんですがね…(違う意味で)