瓶に飾られた百合。
体調がいい時に嗅げば、きつすぎると感じる匂いだ。悪い時でも、心地いい位なのに。
それが薄い?どれだけお前の心は火口に囚われているんだ。

睡眠薬をココアに混ぜ寝かしつけたが、火口を呼ぶ声と泣き声を前に何も出来なかった。
呻き声が聞こえ、ハンドルを握り締めた。

「…ん。なみ、かわ?」

ぼんやりとした視界で、見慣れた顔を見つける。
まどろんでいると、身体が揺れる。車の中?

「え?どういうこと?」
「寝不足で倒れたんだ。お前の家に着くまでまだある。寝ていろ」
「あ、うん。ごめん、色々と迷惑掛けちゃって」

苦笑するが、奈南川は何の反応も返さなかった。
目は前を向き、聞こえていなかったのだろうかと不安になる。

「奈南川?聞こえてなか」
「お前はっ」

奈南川は口を開いて、息を飲み込んだ。
眉を顰めたのが鏡越しに見えた。

「…謝り過ぎだ」

忌々しげに吐き出された言葉は、僕に対してなのか、自分に対してなのか。
奈南川が言いたかったのはそんなことではないだろう。
「お前は、それでいいのか」
いいんだ。これ以上は荷が重過ぎる。

「そうだね。奈南川、ありがとう」
「礼を言われるようなことは何もしていない」

僕の為に、綺麗な唇に傷を付けることはないんだよ?
エンジン音を聞きながら、瞳を閉じた。


「お帰りなさい。大丈夫?会社で倒れたって聞いたから」
「大丈夫。ちょっと寝不足だっただけだから」
「それならいいんだけど…」

ほら、夜遅くに帰っても心配をして迎えてくれる妻がいるじゃないか。
コートを渡し、子供部屋へ向かう。
すやすやと眠る娘。部屋には娘の好きなキャラクターグッズがたくさん置かれている。
買ってあげたら、喜んで大事に使ってくれている。
可愛い娘もいるじゃないか。これ以上、何を望む?

「僕は幸せだな」

起こさないようにそっとドアを閉じ、リビングに戻った。
椅子に座ると、妻が水を一杯出してくれた。

「ありがとう」

僕には充分すぎるよ。これ以上を求めてどうする。

「ねぇ、貴方」
「ん?」
「これ、知ってる?ハートカヅラって言うんだけど」

妻が机に載せたのは、ハートの形をした葉っぱを持つ観葉植物だった。
黄色の陶器に生い茂っている。黄色…。

「気持ちを明るくさせるんですって」
「ふうん」

グラスを手に取り、水を飲む。
口に張り付いていたココアが剥がれ落ちていく。

「風水にでもはまったの?」
「…それと、物事をいい方向に運ばせることが出来るんですって」

妻は葉を一枚千切ると、グラスを持っているのとは逆の手に握らせた。
ハートの形。これ以上はいらないんだ。
握り潰そうと力を込めた。

「恋愛面で」
「……………」
「コート、出そうか?」
「ごめん。出かけてくる」

コートも受け取らず、夜の闇へ走り出した。
誰も、幸せを求めてはいけない、なんて言っていない。
持ち切れないほど大切な物が出来たら、零れないように支えてくれる友がいる。
僕を愛して、送り出してくれる人がいる。

涙が出るのは、きっと、寒さのせいだ。



ピピピ。携帯に着信音が鳴る。
重く息が詰まる空気が少し緩まる。
火口は携帯を手に取り、耳に当てた。

「何だ?仕事の話なら後に…」

固まった火口を変に思い、三堂は首を傾げた。

「ああ、三堂と一緒にいるが、はあ?」

携帯に大声で怒鳴ったら、相手の人、耳が痛くなるだろうに。
火口は携帯を椅子に投げ飛ばし、コートを慌しく着始めた。

「っ、あの馬鹿。信じられねぇ」
「火口?」
「すまん、ちょっと出かけてくる」
「へ?へ?へ?」

走って行った火口に、さっぱり訳が分からず三堂は呆気に取られた。
一人になると、何処からか雑音が聞こえてくる。
もしかして、火口の携帯?切らずに走り出したのか?
手に取ると、そこには「葉鳥」と書かれていた。

「…そういうことね」

二人とも不器用なんだから。
電話を切って、番号を入力する。

「あ、ナミ?今から行ってもいいかな?」



会話という会話が出来ないまま切られた携帯を閉じる。
あまりに怒って話す気もなくなったのかな。

「あの日出会えた場所で、待ってる」

それしか言えなかった。でも、分かってくれるよね?
気まぐれで行ったスーパー。
会いたいと思っていたから、神様が会わせてくれたのかと思った。
今は電気が消え、人影もない。
スーパーの前の広場の時計にもたれ掛かった。

火口、会いたいよ。携帯を胸に当てた。



腕時計を見る。
日付が変わろうとしている時間じゃないか。
夜の冬に外で待ち合わせる奴がいるか。
息を切らしていて、声が微かに震えていたから、十分に着込んでいないのだろう。
あいつのことだから思いつきで走り出す姿が目に浮かぶ。

着いた先に言われるのが、拒絶の言葉でもいい。会いたいんだ。
この気持ちを隠したり、なかったことにはしないから。
だから、待ってろ、葉鳥。



息を手に吹きかけても、何も感じなくなった。
小刻みに震える身体を両腕で支える。
息が吸いにくい。喉に風が入り、刺すような痛みを感じる。
大丈夫。火口はきっと来る。



走りながら、何て馬鹿な姿だろうと思う。
コートを来て必死に走るサラリーマンなんて滅多にいねぇな。
どうしようもなく笑いがこみ上げる。
心底惚れちまってんな、俺。

スーパーに着き、膝に両手をつく。
何処にいる。
大きく呼吸して肺が痛くなったが、気にせず走る。
そうだ、時計台。あの馬鹿でかい目印。


大きな時計。絶対に見つけてくれる。


身を小さく丸めている。

息を切らして立ち尽くしている。



愛している人の名を呼んだ。



「葉鳥っ」
「火口!!」

慌てて駆け寄り、どちらからともなく抱きついた。
葉鳥は温かさと来てくれたことに安堵した。
火口はすっかり冷えている身体に驚いた。

「人を呼び出すとはいい度胸だな」

火口は我に帰り、葉鳥から腕を離した。
冷たい身体は気掛かりではあったけれど、温めるのは自分ではない。
無意識に火口に手を伸ばそうとした手を下ろし、葉鳥は息を吸った。

「…僕は、火口のことが好きだ。もちろん家族も好きだ。
でも、僕は妻も娘も火口も、比べられないくらい、愛してるんだ!!一つなんて選べないっ…」

これが僕の出した答えだ。順位をつけることなんて出来ない。
どれも手放せない、手放してはいけない、大切な物だ。
ぽすん、と温もりに包まれる。

「それでいいんだよ。充分だ」
「火口っ」

抱きしめる腕がきつくなったが、されるようにする。
幸福を一つ一つ大事に、落とさないように抱えていればいい。
人の命の量は決まっていても、幸せの量など決められていないのだから。

「火口、愛してる」
「…ああ、俺も愛してる」

身を寄せ合い、口付けた。
温かく感じるのは、僕が冷えているからなのか。
いや、火口が暖かいんだ。火口は僕を温めてくれる炎だ。

僕は、大切な物を一つずつ増やしていく。
一つも潰さず、落とさないように。



僕の未来には、光が溢れている。










やっと火口と葉鳥がくっつきました。
ころころと視点が変わって分かりにくかったでしょうか?
二人の葛藤と結論を書くためだったので、ご了承下さい。

よっしゃあ、これでイチャイチャさせられるっ。
パパとか出しちゃおうかなー。
最後に行き着く先は分かってますが、最後までラブラブさせます!!