今日使った書類を揃え、机に置いた。
コートを羽織り、廊下を歩く。

「葉鳥」

三日前、火口に料理を教えてもらってから、自分が動いていないのに、周りがあっという間に流れていく。
僕だけが孤立しているようだ。
振り返ると、奈南川が顔を顰めていた。

「奈南川。どうしたの、変な顔して」
「お前の方が酷い顔をしている」

奈南川は葉鳥の頬に手を当て、目尻を親指で拭った。
葉鳥の頬は白く粉がふいており、目は赤く充血していた。

「涙の跡がある」
「目にごみが入っちゃったんだよ」
「嘘を吐くな。一朝一夕の跡じゃない。寝不足も重なってる。…葉鳥、何があった?」

そういえば、鏡を何日も見ていないような気がする。
食事をした気も、睡眠を取った気もしない。
いつだって、火口のことしか考えてなかった。

「うっ、なみ、かわぁっ」

奈南川は、泣き崩れた葉鳥を優しく包み込んだ。



幸福の原理



手を組み合わせて腕を伸ばすと、ぽきぽきと骨が鳴る。
今日は一日中座ってたからな。あとは明日に回せばいいだろう。
コートを手に取ると、ドアが開いた。

「三堂か。何か問題が?」
「…まあね、仕事じゃないんだけど。この後、ちょっと時間いいかな」

腕を組み壁に寄りかかっている三堂の顔がいつもより険しいのが気に掛かったが、
仕事ではないと言っているから会議のことかと思い、了承した。

車の中でずっと三堂は厳しい顔をしていた。
着いたのは三堂の家だった。
セキュリティーに気を使っているから、安心して話が出来るだろう。

「火口、こっち」

部屋のドアは全て使い込まれて、深みのある色だ。
大晦日に使った部屋を通り過ぎ、奥の、他に比べると小さめの部屋に三堂は火口を案内した。
三堂が普段使っている部屋なのだろうか。
中には必要最低限の物しか置かれていない。

三堂はソファーに腰掛けると、向かいの椅子を火口に勧めた。
柔らかな革の椅子に座り、背もたれに腕を掛けた。

「一体全体、何事だ?」
「……分からないのか?」
「呼び出したのはそっちだろう。早くしてくれ」
「火口」

ぱん、と軽快な音がして、左頬がじんわりと熱くなる。
殴られたと気付くのには数秒を要した。

「てめぇっ」

椅子を大きく揺らして、掴み掛かるかのように立ち上がった。
三堂は火口の剣幕にも動じず、立っていた。

「お前、俺に恨みでもあるのか?」
「あるねっ」

三堂は大声で叫び机を勢い良く叩くと、火口を睨み付けた。
怒っていることは分かるが、何に対して怒っているのかが分からない。

「何で怒ってるんだよ!」
「当たり前だろ!この馬鹿っ」
「馬鹿だと?馬鹿って言う奴が馬鹿なんだ!!」
「火口に言われたくないね!!」

荒く胸を上下させると、どちらが言うともなく椅子に座った。
ゆっくりと息を吐いたり、目を瞑って指を組んだりして、頭を冷やす。

「…少し言い過ぎた」
「今のは幼稚だったな」

大人らしからぬ言い合いになってしまった。
火口は頭を左右に振り、問い掛けた。

「何故怒っているのか、俺には分からないんだが」
「ちょっと唐突だったかな。ナミから電話があって、気が動転しちゃってさ」

三堂は携帯を取り出すと、留守電を流した。
雑音が入り、奈南川の声が流れる。
慌てているようで、早口で文が成り立っていない。
奈南川らしくない。

「……今、葉鳥と一緒に居るんだ」
「は?」
「火口、静かにして」
「会社で声を掛けたら泣き出したので、私の家で寝かしつけたんだが。
……寝言で火口を呼びながら泣いてるんだ。三堂、お前は何か知らないか?
…また電話する」

ぷつっと音がして電話が切れた。
三堂は携帯を閉じると、机の上に置いた。
二人の間に静寂が流れる。

「………火口。本当に分からないか?」
「……………」

拳を力一杯握り締めた。



奈南川の家に来るのは二度目だ。
初詣に行ったあの時以来だ。ちくりと胸に針が刺さった。
車の中で奈南川が肩に掛けてくれた毛布を握り締めた。

奈南川は葉鳥の手を掴み、引っ張っていく。
早足で歩く奈南川と歩幅が合わず、時折転びそうになる。
障子が開かれ、投げ込まれるように部屋に入った。

「すまないな。私の部屋なら人が来ることはないから」
「そう。ごめんね」
「そんな顔で笑うな。こっちまで辛くなる」

歪められた顔に、奈南川の方が辛そうだと思う。
いや、僕が辛くさせているのか。

「あれ?奈南川、香水付けてる?」
「いや」
「おかしいな。部屋にいい香りがするんだけど」

薄くて気付かなかったが、花の香りがする。
言われてみれば、奈南川がつけるような匂いではない。

「…ああ、女中の香水が移ったのかもな。匂いはきつくないか?」
「ううん。薄いから大丈夫だよ」
「薄い?……何か飲むか。温かい物がいいな」

一人きりになると、部屋が随分と広く感じた。
あまり物を置かない性質なのだろうか。
敷き詰められた若草色の畳が、現実の物ではないみたいだ。
甘い香りが漂ってくる。

「ココアだ。飲むと温まる」
「ありがと」

陶器で出来たマグカップは、中の液体で温められていた。
カップの白にココアの薄茶が浮いているようで、所在がなく、おぼろげだ。
僕みたいだ。
口を付けると、チョコレートと牛乳の程よい甘さが口内を満たす。
温かさに溶けていく。このまま消えられればいいのに。

「美味いか?」
「うん、すごくおいしい」

身体が甘い物を欲していたのか、カップはすぐに空になった。
温もりを手放すのは勿体無いけど、奈南川に渡さなきゃ。
伸ばした右腕が、二本に見えた。

「え?」

世界が二重になって、消えた。



渋々と、三日前に葉鳥と会い料理を教えたこと、帰り際に告白されマフラーを渡して帰ったことを伝えた。
三堂はふんふんと相槌を打っていたが、途中から下を俯いた。
声を掛けるが、返事がない。

「三堂?」
「火口、馬鹿じゃないの!?」
「っ、耳元で怒鳴るなよ」

きーんとカキ氷を食べたような痛みが耳に走る。
三堂の怒声は部屋中に響き渡った。

「何してんだよ。告白されてマフラー渡して帰った?はあ?」
「しょうがないだろ」
「そんなの、馬鹿以外の何者でもないだろ!」

葉鳥が求めていた答えは、自分のした行動ではない。
抱きしめるか、突き飛ばすか。
非情な返事でも葉鳥は受け止めただろう。
なのに、はっきりとした答えを出せなかったのは、まだ言い訳が欲しいからなのかもしれない。

「分かってるさ」
「じゃあ、何でっ!」
「…あいつには妻も子供もいる。俺なんかを好きになってる暇なんてないだろ」
「………」

男で家庭持ち。好きになるわけがない、筈だった。
家族のことを話す笑顔を見るのが好きだった。
近くにいれれば幸せだった。

「仲のいい友人でよかった。それ以上望んじゃいなかった」

大晦日のあの時、本当は分かっていた。
友人という枠で我慢できる気持ちではないということを。
likeではない、loveの好きだと気付いてしまった。

「あいつが、俺を好きになる筈がないって、思ってたんだ」

いつしかすべてを自分の物にしたいと思った。叶わなくても、愛し続けた。
一度火の点いた蝋燭は簡単には消えてくれなかった。
再び左頬が叩かれたと分かったが、不思議と痛みを感じなかった。

「自分が好きになるのはよくて、相手が好きになるのはいけない?自分勝手だ」

三堂は叩いた衝撃で熱くなった右手を下げた。
握った拳が微かに震えていた。

「あんなに優しくしといて好きになるな、なんて勝手なこと、火口に言える権利はない!!」

悲鳴のような怒声が部屋だけでなく、家中に響き渡った。
普段の温厚さからは想像も付かない。
三堂は肩で大きく息をして、どすんと腰を下ろした。

「僕にナミと一緒に居れる幸せを教えてくれたのは、お前じゃないか…」

三堂は眼鏡を外し、目に手を覆い被せた。苦しげに呻き声が漏れる。
火口は黙って三堂を見た。

「自分が幸せになるより、相手に幸せになって貰いたい。お前だってそうだろ?
俺のせいであいつの幸せを壊したくはないんだ」

その為には、仕方がないことも、諦めなければいけないこともあるんだ。

「…人に、愛するという感情がなければよかったのに」
「ばーか。そしたら、その人の大切さも分かんないだろうが」

苦笑しながら、その奥には決意が固まっているのが分かる。
三堂は火口の様子に、自分は見習えないな、と苦笑した。
自分もいつかは迎えるであろう時だけれど。
もし神様がいるのなら、世界中とは言わないから、周りの人々を幸せにして欲しい。
伝ってくる温かい水を見られないように、力を強めた。



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