風邪の特効薬
「奈南川?」
不安げな声が聞こえる。
返事をしようとして、喉が潰れていた事に気付く。
微かな息が漏れただけだった。
「−−…−っ−−っ!」
ひゅー、ひゅー、と風のような声とも呼べない声が口から出る。
届けばいい、この声が。
人恋しくなっているのだろうか。
絶対にこの声が届くと信じている自分がいる。
「−−っ」
空気が喉を通るたびに痛みを訴えるが無視する。
当に喉は壊れているのだから。私は呼び続ける、彼の名を。
「−−!−−っ!!」
暗い部屋に光が差し込んだかと思った。
何を言ってるんだ。ただ、あいつが部屋の電気を付けただけじゃないか。
「奈南川!?」
ドアを閉める事もせず、慌てて駆け寄ってくる姿が犬の様に見えた。
言ったら怒るのは目に見えているが。
「おい、大丈夫かよ。風邪で倒れたって聞いて心配してきたら、思ったとおりだ」
「−−うっ」
「喉、潰れてんのかよ。ったく、お前はいつも無理しすぎなんだって」
確かによく言われるが、昨日は重要な会議があったんだ。
私が欠席したら取引が出来ず、かなりの痛手を負っただろう。
それだけでなく、会議の後も色々と確認する事が山積みだった。
だから、しょうがないだろう。
「−−そもっ。お前の、せいだっ」
「へ?」
「−前の、部下が、へまをして、−っちは、大変−−−−だぞ」
「そうだったっけ?」
こっちは喉の痛みを堪えながらも怒っているというのに。
もっと文句を言ってやろうかと大きく息を吸い込んだ。
「ガハッ、ゴホッ…」
「無理すんなって」
だからお前のせいだろう!ぎっと睨みつける。
三堂は呆気に取られた顔をして、口角を上げた。
「ナミ、誘ってる?」
「な、何言っ、ゴホッ、ケホッ」
「見たところ朝から何も食べていないみたいだから、お粥作ってきてあげるね」
『料理できるのか?』
「レトルトに決まってるじゃん。じゃ、ちょっと待っててね」
へらへらとした笑顔をした三堂を見送る。
何だかんだ言って優しいんだよな、あいつは。
独身なのだから、料理位できそうな物だが、粥は作るのに時間が掛かるからなのかもしれない。
…ん?私は喋ったか?喉の痛みがないことに気付く。
料理が出来るのかとは思った。だが、声を出してはいなかったはずだか。
な、何だかバカップルみたいじゃないか。
いや、きっと自分は喋ったのだ。そうだ、そうだったんだ。
「ナミ、百面相してるよ?」
『な、なんでもないっ!!』
「照れちゃってー、そんな所も可愛いけどね」
『うるさい、ばかっ』
「もう、それがわざわざ見舞いに来てくれた友人に対する態度?」
『誰が友人だ』
「あ、恋人か。ごめんごめん」
『それも違う!!……』
「ん?どしたの?」
分かっている。分かってしまっている。
ただ頭が認めたくないだけなのだ。
もし言ったら、目の前の男が喜ぶのが目に見えているから。
「え、大丈夫?どこか痛いの?」
お前の存在が痛い、とは思ったが口にはしない。
「ナ〜ミ〜?いくら僕でも怒る時はあるんだよ?」
最悪だ。もしかして、が本当だとこんなにショックなのか。
『なあ、口に出さなくても伝わってるよな?』
「うん。そりゃまあ、愛の力vってやつ?」
『………………』
引くな。確実に引くな。誰でも引くな。
こいつが某俳優に似てるだの言って騒いでいるOLも引くな。
まあ、私以外にこんなこと言う奴はいないんだろうな。
そう思って、自分の独占欲の深さに気付いてしまう。
「顔赤いけど大丈夫?熱上がったのかな。食べれる?」
こくりと頷く。頭痛は酷くなっていたが、弱気な面を見せると何をしでかすか分からない。
レトルトなのにわざわざ土鍋に入れてあるのは、律儀な性格からだろうか。
蓮華を手に取り、粥を口に含もうとした。
「え、えーと?」
蓮華は重力に身を任せ、手から滑り落ちて土鍋の中に戻った。
右手を見れば震えていて、物など掴めない事が容易に分かった。
力が入らない。
「じょ、冗談だよね?」
再び蓮華を手に取るが、結果は変わらなかった。
かしゃん、と陶器同士がぶつかる音が響いた。
部屋に二人しかいないという事も影響しているのだろう。
やけにうるさく聞こえ、音が消えた後の沈黙は余計に居たたまれない。
「もしかして…食べれない?」
食べれないと言うのは間違っている。
腹は空いているのだ。
昨日の昼に食欲がないのに無理矢理パンを一つ口に押し込んで以来、何も食べていない。
土鍋に口をつけて、胃に流し込みたいくらいだ。
「食べさせてあげようか?」
『断る!!!』
断固拒否する!!
三堂を睨み付けると、盛大な音が鳴り響いた。
「…あのさ、意地張らないで「食べさせて下さい」って言えばいいだけじゃない」
それが嫌なんだ。この男に食べさせてもらうだなんて。
屈辱だ。それに、後でからかわれるに決まっている。
「もうしょうがないな。……ナミ」
いつもより一オクターブ低い声に身体が震えた。
「食べないなら、ヤルよ?」
『食べさせて下さい』
「そうそう、最初からそう素直ならいいんだよ」
三堂は嬉々として蓮華を手に取って粥を掬い、息を吹きかけた。
「はい」
目の前に差し出される。粥が乗っている。旨いんだろうな。
けれど、どうも躊躇してしまう。
三十にもなって大口を開けて食べさせてもらうのは、流石に恥ずかしい。
「…じゃあ、僕が食べる」
あ、と口が開いた。その瞬間、口に温かい物が触れる。
身動ぎするが、離れない。
どろり、と粥が流れてくる。同時に違う物まで入ってくる。
ざらざらとしていて、舌に絡まってくる。伝って少しずつ粥が移されてくる。
ゆっくりと飲み込んでいく。次第に自ら舌を絡ませて粥を強請る。
まるでペンギンの親子のようじゃないか。
粥がなくなっても尚、絡ませあった。
銀糸がシーツに垂れているのが分かる。けれど、口を外そうとはしない。
熱があるのに、自分より温かい三堂の舌に安心する。
まだこの温もりの中でまどろんでいたいのに、三堂は口を離した。
抗議するように、二人分の唾液を飲み込んだ。
「そんなにがっつかなくても、まだまだあるから」
蓮華に乗った粥。そのまま食べてもいいのだ。
けど、今自分は風邪を引いている。
頭が回らない。少しおかしくなっているんだろう。
「−−−が、いい…」
「え?」
「口移しが、いい…」
粥を口にしたおかげで、喉は掠れながらも声を発してくれた。
動揺する顔が見える。おかしい。
普段は笑顔で塗り固められた仮面を外そうとしないくせに。
「口移しで、食べ、させて」
今日の私はおかしくなっているんだ。
人は病気の時は心が弱くなると聞いたことがあるが、本当らしい。
人が恋しい。お前の事しか考えられない。
三堂は粥を口に頬張ると、再び口付けた。
土鍋の中身が無くなるまで、何度も熱い口付けは交わされた。
「ハックション!!」
「三堂、風邪か?」
「うん、そうみたい。ッヒクション!」
「会議の日に風邪を引くなよな。うつすんじゃねぇぞ」
「だってしょうがないじゃん。昨日はナミの看病しててんだから」
がたん、と椅子が揺れる音がする。
配られた書類が床に落ちたが、本人は拾おうとしない。
「奈南川、どうした?」
「ナミってばさ、口移しで食べさせてくれ、ってうるさくてさー」
「み、三堂っ!私はそんな事言っていない!!」
「ええ?言ってたじゃん」
三堂はポケットから携帯を取り出した。
いくつかボタンを押して、携帯を前に突き出した。
「……口移しで、食べ、させて…。あっ…んぅっ…もっ、とぉ……っあ…」
ブチッと何かが切れた音がした。
三堂以外の全員にはそれが何か瞬時に理解した。
ああ、キレた。
「三堂っ!!」
奈南川が三堂の胸元のシャツを掴むと、三堂は子供の様に笑った。
「んぅっ!」
昨日と同じ位濃厚な口付けをする。水音と、時折小さな嬌声が漏れる。
誰も言葉を発せず、二人を凝視していた。
永遠に続くかと思われた時間は、意外とあっさりと終わりを告げた。
「っ…はぁっ、っ、お前っ…何して!」
「え?キスして欲しかったんじゃないの?」
「違うっ!」
「身体は正直なのになあ」
いまや三堂の太股の上に奈南川が乗っている形だ。
三堂は右足をわざとらしく上げる。
「あっ」
艶かしい声が漏れ出る。
脚の動きをやめずに笑っている三堂とは対照的に、奈南川の目は潤み、息は上がり頬も紅潮してきている。
「あぅっ、みど、はあっ…も、やめっ」
「そうだね。私は具合が悪いから早退するよ。ナミに看病してもらう事にするよ」
ねっ、といまだ息の整わない奈南川に問いかけ、抱きかかえると、三堂は会議室を出て行った。
暫く部屋の中は何の音もしなかったが、痺れを切らした火口が口を開いた。
「今日は会議なしでいいな」
「あ、ああ」
「たまにはいいんじゃないか?」
「にしても場所考えろっつの、あいつら!葉鳥、飲み行くぞ!!」
「え、う、うん。でも…」
「あ?何か用あるのか?」
「いや、そうじゃなくて…」
「だから何だよ」
「その前に、と、トイレ…」
「は?」
「私も」
「俺も…」
「うむ」
「行くか」
「……………」
突っ立った火口を残して、五人は出て行く。
一人きりになると、火口は叫んだ。
「何でホモばっかなんだ、この会社は!!」
「ヒックシュン」
「三堂?大丈夫か?」
「うん。誰かがきっと噂してるんだよ」
「火口とかか?」
「だろうね。でもナミ、他の人の事なんか考えないでよ」
「お前の事しか考えてないよ」
「嘘吐きは好きじゃない。…いいよ、僕しか見えないようにするから」
「頑張りたまえ、経営戦略部部長殿」
「うるさい口は塞いじゃうよ?」
今日も、二人の愛は、変わらない。
「こっちはいい迷惑だ!!」
ごもっともです。
やっちゃった…。ヨンナミです。
冬休み限りの限定です。
友人'sに文句言われる前に消します(笑)